三好義紹の墓(三好長慶の曾孫)

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住所:鳥取県米子市福市

 1332年、後醍醐天皇が隠岐に流される際、皇女・璋子内親王も正体を隠して従ったが正体を知られてしまい伯耆米子の安養寺に入り出家した。この時、付き従っていた三好孫三郎も安養寺に残って璋子内親王に仕える。時代は下り、三好氏は長慶の時代に近畿・四国で覇を唱えたが長男・義興が若年で亡くなるなどして衰退。本国の阿波までも失ってしまう。
 義興の息子・義資は、所縁のあった安養寺と米子城主・中村一忠の家老となっていた三好一族の横田内膳を頼り米子に移り住む。しかし1603年の米子騒動で横田一族は討たれ、義資の息子・義紹も討たれてしまう(義資はこの時、すでに亡くなっていたと思われる)。
 その後、生き残った義紹の長男・義信は姓を稲田に変え帰農し、次男の長政は姓を変えず町人となっている。

(稲田家墓所全景)

(稲田家先祖累代之墓)

(三好義紹の供養塔。横の碑文には元和8年(1622年)に中村一忠によって討たれたとありましたが、慶長8年(1603年)の間違いだと思います。1603年はちょうど米子騒動のあった年ですし、1622年はすでに鳥取藩の池田家が治めていた時代ですから・・・。阿波城主というのは不明ですが、阿波の国主という意味でしょう)

(璋子内親王と三好孫三郎が皆生の海に散歩に行った様子を描いたもの)

感想:年代など合わないところがありますが、こういった伝承もあるということで・・・。写真は稲田さんの許可をいただいて載せています。ありがとうございました。

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三好義紹の墓(三好長慶の曾孫)” への8件のコメント

  1. >とら吉さん

    いいところにお住まいですね(^_^)
    米子の三好氏の末裔には大正~昭和初期に国会議員となった三好英之がいます。
    ですので研究している方には米子に子孫を名乗る方がいるのは知られていたんでしょうが、真剣に調べるまでもないということで放っておかれたのではないでしょうか。

    伊吹島はネットで検索すると香川県の観音寺市の西に浮かぶ小さな島のようですが、このことでしょうか?
    義資が実在の人物なら駿府にいてもおかしくないですね。

    芥川山城はまだ行っていないです。大阪に行くとすぐ大坂の陣巡りを始めてしまうので(^_^;)
    芥川山城はこれからの時期、良さそうなので飯森山城なんかと一緒に行ってみたいです。

    畿内史・三好氏は複雑で覚えられないことが多いので、いろいろと教えて下さいm(_ _)m

    改めてこれからもよろしくお願いします!

  2. 米子の何処かの倉の中から偶然見つかったりしない限りでは難しそうですね~(・-・)でも興味深い。
    仮に義資が生きていたとしたら、横田村詮がいた駿府城辺りで三好の名が出てくるかもしれませんね。
    それと芥川山城(三好山)には行かれていない様なので、お薦めしておきます^^
    紅葉の時期の摂津渓谷がとても綺麗なのと、その自然を見つつ―清流に囲まれた芥川山城は、JRの高槻駅開発で石垣を利用された高槻城と違い(泣)関西の山城としてはかなり綺麗な保存状態で残っているので一見の価値ありですよ♪
    麓には銭湯もあるのでそのまま汗流せますしb

    まだツイッターはやってないのですが、色々歴史交流したいですね~
    よろしくお願いします

  3. まあ先生方は仕方ないですねー(^^;)
    私は京都と大阪の境に住んでいまして、三好に関連する場所に割と近いので廻って勉強しています
    畿内史と三好氏が絡む本には今の所ある程度抑えているのですが、三好義興の子の伝承や逸話が米子に存在していながら、ネットが発達したこの世の今まで伝わってこなかったのは研究が畿内・阿波の細川氏の周辺から始まったからでしょうね。

    今谷氏や天野氏は勿論、郷土史研究家も米子までには目が届いていなかったのではないでしょうか、明応の政変~信長上洛辺りが(摂津・河内・和泉・山城・大和・阿波・讃岐)の中央がメインですし。
    生き残り云々の話は1572年の足利義昭討伐時に死んだ三好義継の子(と伝わっている)が阿波の伊吹島に逃れた事が伝えられていますね(ここも伝承なので正式には認められていないでしょうが)

  4. >torakichiさん

    こんばんは。初めまして。名前は別に高虎バリィさんでもいいです(^_^;)

    今谷明さんや天野忠幸さんはこの手の話は相手にしないのではないかと・・・。そういう先生方は一次史料を大事にしてこういう伝承は取り上げないという印象があります。
    本当に知られていないらしく、ご子孫の方が米子市立図書館に行かれてレファレンスをお願いしたところ「うちには資料がないので協力できない」ようなことを言われたそうです。

    私も長宗我部が好きな関係で阿波や讃岐の戦国史も調べたことがありますが、義資の名前は見たことがないです。米子城について書かれた地元の本で初めて知りました。
    義資が米子に来るまでどこで何をやっていたのかまったく分からないです。何かご存じないですか?

    「お墓は写真を載せていいけど個人の墓なので勝手に来られるのは困る」ので、ということで詳しい場所は載せませんでした。申し訳ないですが、ご自分で調べていただくしかないですm(_ _)m

    私は現在も四国の戦国史については勉強中ですので、ご指導ご鞭撻の程よろしくお願いします。
    あと米子に移り住んだ三好氏についても何か分かったら教えて下さい。

  5. 初めまして、あの、これ結構凄い事ではないのかと。
    三好氏の生き残りの事跡が残ってるのは少ない上、長慶の子で義興の子だった義資は義興の子だと言う以外は何も解っていない人物だったので・・・
    三好の研究家である今谷明氏、天野忠幸氏も知っているのか解らないくらいの情報だと思います。
    伝承とはいえ、明確な名前が出てくるくらいなので結構驚いてます。

    米子の乱が三好氏とその旧臣が絡む最後の事件だったので三好の重臣であった横田内膳と共に三好氏旧臣がいるのでは~と睨んでいましたが、やはり生き残っていたのですね・・・
    三好氏や戦国期の四国~畿内に関しては詳しい方なのですが、ネット上で長慶-義興-義資の子孫の系列が明確に出たのは高虎パリさんのブログが初出だと思います。
    地元の人だけの伝承なら、研究者も知らない可能性はあります。
    義興の子の義資はいないものとして扱われてて、戸次川の戦いで十河存保が討ち死にし、その嫡男も暗殺され三好氏は断絶した、というのが定説なので、感動しました。
    義興まで事列関係を辿っていけるような資料などが出てきてほしいですね。
    米子騒動を調べようと米子には行こうと思っていたのですが、楽しみが増えましたb

  6. >さのすけさん
    そうですね。お墓も含めていろんな史跡を廻っていると興味が出てきます。
    璋子内親王のことは今回帰省したときに初めて知りました。

  7. 色んな方のお墓参りをしていると、
    その方達に興味を持ってしまいますね。
    歴史はやはり、面白いですね。

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