福山塚(福山肥後守の供養塔)

●福山塚
住所:鳥取県西伯郡南部町与一谷
駐車場:なし

 新山要害(安田要害・長台寺城)の城代だった尼子氏の家臣・福山肥後守は不動ヶ嶽城や八橋城での戦いに敗れ雪辱の機会を狙っていた。そこで永禄8(1565)年10月に毛利軍の籠もる法勝寺城を攻撃したが、城を守備していた三村家親が出て来ないため城下を荒らして日暮れに撤退する。そこを家親に襲われ鍋倉(南部町鍋倉。当地区の隣の部落)で戦死しまったため、村人は哀れに思い供養塔を建てた。地元では福山明神とも呼ばれていたという。
 塚にはもう一つの伝承もある。「伯耆志」によると寛永18(1641)年、備後福山から来た浪人50人ばかりが鍋倉の山中に隠れた。そして賊となり尼子旧臣の後裔・遠藤氏と須山氏の兄弟の家を襲うが、家僕が近隣の村に助けを求めたため四方から駆け付け応戦した。その最中、弓術に長けた兄弟は賊将の足を射切ったため、賊将は部下に助けられ当地の山中に逃げ込むが、その怪我が元で亡くなる。その墓が福山塚だという。

(ガードレール下にある)
福山塚

(正面には「福山」と刻んである)
福山塚

(横には「寛」の文字があるが、それ以上は崩れており判別できない。「伯耆志」の記載を信じるならば寛永に建てられたのだろう)
福山塚

感想:草が刈られて参拝できることを知り行ってみました。基本的に草で塚が見えなくなるような場所に建つので参拝できる機会は限られています。
 前回、ここで地元の方に話を聞いた時は「高齢の方は尼子の名前を聞くと怒るから出さないでね」と注意されました。数百メートルで島根県安来市に行けるような地区なので、尼子経久が西伯耆に侵攻した際は兵が乱暴狼藉を働いたという伝承が残っているのでしょう。




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