羽衣石城(南条氏の居城)

住所:鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石

 昔、ある山に舞い降りた天女が大石に羽衣を置き、池で入浴をしていた。その時、たまたま通りかかった農夫が羽衣を持ち帰ってしまった。それを知った天女は農夫に返してくれるよう頼んだが、返してはくれず仕方が無いので農夫の妻となった。やがて二人の子供が生まれ平穏な日々を送っていたが、やはり天に帰りたい思いは消えない。そこで天女は子供から羽衣の場所を聞き出し、それを着て天に帰った。
 しかし子供二人は母を恋しがり、山に登って太鼓を打ちや笛を吹き母を呼んだが、その声が天女に届くことはなかった。それから羽衣があった山を羽衣石(うえし)山と呼び、子供達が母を呼んだ山を打吹(うつぶき)山と呼ぶようになった。

(羽衣石山(羽衣石城)の中腹にある羽衣石(はごろもいし))

 羽衣石城は伯耆の豪族・南条氏の居城である。1366年、南条貞宗が築城。代々山名氏の被官として嘉吉の乱などにも参加している。しかし八代目の宗勝の時に、尼子経久が伯耆へ攻めこんで来たため羽衣石城は落城。城には次男・国久が入り、宗勝は追放された。いわゆる『大永の五月崩れ』である。
 宗勝は何度か羽衣石城の奪還を試みるが失敗。城主に返り咲いたのは毛利氏が尼子氏を倒した1565年ごろ、実に40年以上も流浪の身であった。

(石垣)

(城趾碑)

(模擬天守)

 毛利氏への恩は一生忘れないと誓った宗勝だが1575年に事件が起こる。宗勝が富田城の吉川元春に謁見して羽衣石城に帰ると急死してしまったのである。家督を継いだ元続は伯耆を手に入れるために毛利氏が父を毒殺したと思い、織田氏が山陰へ攻めてくるとそちらに鞍替えした。
 1579年に元春が羽衣石城を攻撃し落城するが、羽柴秀吉の加勢を得て奪還に成功している。1580年にはまたも元春が攻めてくる。元続は山名氏と協力して城下の長和田(なごうた)で迎え撃つが敗退してしまう。しかし羽衣石城は守り抜いている。1581年、羽柴軍がいよいよ因幡の鳥取城まで迫り兵糧攻めを開始した。援軍に駆け付けたい毛利軍であったが南条氏に阻まれて進めなかった。結局、鳥取城は孤立無援のまま落城してしまう。

(二の丸)

(羽衣石城から東郷湖と日本海を望む)

 本能寺の変が起こり、羽柴軍が京へ引き返すと毛利氏が勢いを盛り返す。羽柴軍のいない南条氏は毛利氏の相手ではなく羽衣石城は落城。元続は京方面へ逃亡する。しかし秀吉と毛利氏の間で話し合いが行われ再び城主に返り咲いている。
 1600年に関ヶ原の戦いが起こると、元続の跡を継いだ息子の元忠は西軍につく。そのため、領地は没収。城は焼き払われ羽衣石城の歴史は幕を閉じる。
(羽衣石城遠景)

コラム:ここも結構きつい山城でした。あんまり訪れる人がいなさそう。虫とかたくさんいました。
 概要は昔書いたため『大永の五月崩れ』や『南条宗勝の毒殺』など古い説をもとにしていますが、面倒なのでそのまま載せました。




写真の提供についてはこちらをクリック




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA