尼子再興戦と伯耆 その2(戦いの経緯1)

○再興軍上陸~西伯耆への侵攻
 毛利元就によって滅ぼされた尼子氏だったが、尼子旧臣は山中鹿介幸盛を中心に再興を計画していた。そこで京都の東福寺にいた尼子一族の勝久を還俗させ毛利氏が九州に出陣している隙を狙い、1569年6月但馬の山名氏の協力を得て出雲に上陸。残党を取り込み月山富田城を目指した。
 尼子再興軍は西伯耆にも攻め込み、同年9月には末吉城(末石城、西伯郡大山町末吉)にいた旧臣・神西元通を帰参させ、淀江城(米子市淀江町淀江)を落としている。日野郡では日野山名氏が再興軍に協力し神戸(かど、日野郡日南町神戸上)などで蜂起している。
 西伯耆の要である尾高城(米子市尾高)、雲伯の交通の要衝だった手間要害(西伯郡南部町寺内)は落ちなかったが、多くの城が尼子再興軍のものになった。

(末吉城趾)

(淀江城跡。丘の上に城趾があったといわれるが淀江駅建設の際に崩された)

(尾高城跡)

(手間要害)


 勝久は同年8月~10月の間に瑞仙寺(米子市日下)・経久寺(西伯郡南部町法勝寺)・大坂八幡宮(逢坂八幡神社、西伯郡大山町松河原)など尼子氏に所縁のある寺社に安堵状を発行している。
 しかし西伯耆最大の宗教勢力で尼子氏と浅からぬ縁であった大山寺(西伯郡大山町大山)は毛利氏につき、大山にあった経悟院だけが尼子再興軍に味方している。

(瑞仙寺の本堂。尼子晴久が所領を安堵している)

(経久寺の本堂。尼子経久の菩提寺として建立されたという。経久の位牌や供養塔がある)

(逢坂八幡神社の社殿。尼子晴久・義久の崇敬が篤かった)

(大山寺の本堂。天台宗の古刹で比叡山・高野山などと共にその名を全国に知られていた)


○参考文献など
・鳥取県史 中世
・鳥取県史ブックレット 尼子氏と戦国時代の鳥取
・鳥取県の歴史散歩
・大山町誌
・因伯の戦国城郭 通史編
・日本城郭大系
・(旧)米子市史



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