尼子再興戦と伯耆 その1(尼子氏から見た伯耆の重要性)

 伯耆地方で廻った史跡のまとめとして書いてみました。お付き合い下さい。

○概要
 1566年11月、中国地方に覇を唱えた尼子氏が毛利元就に降伏し、出雲(島根県東部)・伯耆(鳥取県中西部)などは元就の支配下に置かれる。しかし尼子の旧臣は一族の勝久を担ぎ出し再興を企てた。1569年6月、挙兵した尼子再興軍は出雲・伯耆の諸城を落として行くが、1570年2月の布部山の戦いで敗れてからは守勢に回り、1571年8月には出雲・伯耆から撤退している。

○尼子氏から見た伯耆の重要性
 出雲と伯耆は一般に雲伯地方と呼ばれ風俗・言語などが似通っている。特に出雲と西伯耆(米子市・境港市・日野郡と西伯郡の大半)の方言は、中国地方の他の地域が中国方言というカテゴリーに分けられるのに対し、雲伯方言という独自のものに分けられ現在でも密接な繋がりがある。
 尼子氏の本拠地・月山富田城は出雲の東に位置し、出雲一国の支配ではなく東出雲(安来市・松江市・奥出雲町)と西伯耆を支配するための拠点だと考えられている。中世の京方面から出雲への主要な陸路の一つに山陽から四十曲峠(岡山県真庭郡新庄村と鳥取県日野郡日野町の県境)を越えて西伯耆に入り、そこから富田に至るというものがあった。海路も因幡地方から美保関を経て中海に入るため、西伯耆の支配は尼子氏にとって重要なものであった。これは元就の月山富田城攻めの際、出雲だけでなく伯耆も傘下に収め補給路を断ったことが落城の一因になっていることからも分かる。
 月山富田城奪取後の東出雲の安定を考えていた尼子再興軍に伯耆支配は不可欠であった。

(月山富田城全景)


○参考文献など
・中国・四国の方言 調べてみよう暮らしのことば
・安来市歴史文化講座「月山富田城主毛利元秋・元康兄弟」レジュメ
・島根県歴史の道調査報告書
・鳥取県史ブックレット 尼子氏と戦国時代の鳥取


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