四国一周史跡巡り(9日目(Final):蜂須賀家歴代の墓・阿波一宮城・勝瑞城・中富川古戦場)

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 平成20年5月4日、今日は最終日であまり廻る予定ではなかったので、遅めの9時頃に起きた。昨日の酒も残るような気がしたし(案の定、軽い二日酔いだった)。
 これで最後かあ・・・寂しいなあ・・・TT
90:興源寺・・・徳島県徳島市下助任町にある。阿波藩主・蜂須賀家の歴代の墓がある。
 蜂須賀家の墓地は公園となっており、普通の墓地のような薄暗い雰囲気はまったくなく、市民の憩いの場となっていた。庭もあり、とてもお墓に来ているような気分にはならなかった。
 墓そのものは、とても立派ででかさが並じゃあない。お墓に興味がない人と来ても問題なしの場所(楽しめるって事はないけど、嫌がりはしないと思う)。

91:一宮城・・・徳島市西丁にある。一宮氏が城主だったが、長宗我部元親に奪われた。この城こそ四国征伐の際、阿波戦線で最大の激戦が繰り広げられた城で、総勢5万もの豊臣の大軍に囲まれながら、谷忠澄が奮戦している。堅城だったが、水の手を断たれて落城した。その後、各地での長宗我部軍の敗退を聞き、元親は降伏を決意している。蜂須賀家が阿波を支配してからは、支城として残ったが、のちに廃城となった。
 向かいの13番札所の大日寺の賑わいと比べると静か。登り口に一宮神社があるので、ここに車を停めることが出来る(ただし自主的に神社に100円払ってね、という看板があった)。
 城は5万の大軍を敵に回して20日間も耐えたのが分かるくらい広く険しい。でも是非とも一度は登ってみたかったんだよね。長宗我部ファンの方には分かってもらえる・・・はず。
 頂上に着くと地元の方が弁当を広げてピクニックを楽しんでいた。

(一宮城から徳島市内を望む。ここに数万の大軍がひしめいていたんだろうなあ・・・。そう思うとゾクゾクするな)

92:見性寺・・・徳島県板野郡藍住町勝瑞字東勝地にある。元は勝瑞城があり、細川氏の居城だったが、家臣の三好氏によって殺されてしまう。それ以来三好氏が阿波支配の中心の城として使用したが、1582年、長宗我部元親と戦った中富川の戦い後に落城し、廃城となった。現在は三好一族の墓などがあり、土塁などの遺構も残っている。
 この日は近々「勝瑞城館跡まつり」があるらしく、周辺のあちこちで幟がはためいていた。どんな祭りなんだろう・・・。ネットでもほとんど引っかからないし。
 しかし中央で栄華を誇ったあの三好一族の城と墓がこれか・・・。栄枯盛衰だな。

93:中富川古戦場・・・徳島県藍住町大塚傍示にある。この辺りが阿波の覇権を賭けて長宗我部元親と十河存保が激戦を繰り広げた中富川の戦いがあったと言われている。四国内最大の激戦で、最終的には長宗我部軍の勝利に終わり、その後、勝瑞城を落とし、元親が阿波一国を支配した。碑などはないが、ここにある若一王子神社は戦死者の遺骨を集めて祀った神社となっている。
 神社に何も書いてなく自信が無かったので近所の方に聞いたところ、「ああ、そんな話聞いたことあるねえ」と言われたので、間違いないだろう。
 今は釣りをする方がいるくらいで平和そのものである。


94:光勝寺・・・鳴門市大麻町萩原にある。ここは勝瑞城を攻めた際に、元親が本陣を敷いた場所だと言われている。南北朝の戦いで楠木正儀と戦って戦死した細川頼春の墓もある。
 道沿いにあった「細川頼春の墓」という案内板がドブに落ちていたのが印象的だった。ひどい扱い・・・TT

95:三好長治終焉の地・・・徳島県松茂町山ノ手の招魂社内にある。長治は阿波の支配者だったが、国内を安定させることが出来ず、反乱が起き、ここで自害して果てた。
 例によってここに長治ゆかりの松があったが、昭和年間に枯れたため、現在のは二代目である。

96:木津城・・・徳島県鳴門市撫養町木津にある。三好氏の城だったが、1582年に長宗我部元親によって落とされた。四国征伐の際に長宗我部軍の阿波の最前線だったため、豊臣軍によって真っ先に攻められ落城した。
 現在は・・・とんでもないことになっていた。平成18年頃に木津城山公園にしようとしたが、予算の関係なのか中止したらしく、作りかけの無惨な状態になっている。ここに作っても人来ないでしょう・・・。そのおかげで城は見事に削られていた。

97:土佐泊城・・・徳島県鳴門市鳴門町土佐泊にある。前日に行った阿南市の真如院道明寺に眠っている森氏が戦国時代に本拠地としていた。長宗我部氏に最後まで抵抗し、長宗我部氏の阿波完全支配を阻止した。その後、四国征伐の際、豊臣軍はここを上陸地点としている。
 今はやっぱり整備されておらず、草ボウボウ。近所の方にも予想通り登るのは無理だと言われたので近くから写真を撮って終了した。

 これで長かった史跡巡りは終了・・・だが、せっかくなので鳴門海峡のうずしおを見に行った。

 それから食事をして帰った。GWなので明石海峡で大渋滞。しかも掲示板にもその先もまだまだ渋滞と表示されていたので、うんざりしてサービスエリアに停めて寝た。朝の1時に目が覚めると、さすがに空いており、中国自動車道、名神自動車道共に渋滞無しで帰れた。ただし着いたのが朝の4時だったが・・・。
感想:今回は最後だったので無理な予定を組んでいなかったつもりだったが、なんやかんやで時間がかかってしまった。
 帰りはやはり疲れた。車で移動される世間のお父さん、休日、ご苦労様です。
 またここまで旅行記を読んでくださった方、本当にありがとうございましたm(._.)mm(._.)m

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4 thoughts on “四国一周史跡巡り(9日目(Final):蜂須賀家歴代の墓・阿波一宮城・勝瑞城・中富川古戦場)

  1. >柳葉すくもさんへ
    一宮城からの眺めは普通の方でも楽しめますが、長宗我部ファンならなおいいですよ。
    細川頼春のお墓の看板は心ない人か蹴って落したんでしょうねTT

    今回はブログの書き方を変えてみました。前は旅行記みたいな書き方をしていたのですが、長文になるため、書くのが面倒なのと、読む側も読みづらいのではないかと思いまして。

    史跡めぐりの本、出してみたいですねえ・・・。そのためにはまず全国制覇をしないと。まだ北東北・関東の半分・富山・石川・広島・山口・九州全県に行っていない(もしくは行ったけど史跡の写真がない)ので。

  2. 一宮城からの眺めすごいですね(><)ここを大軍に囲まれてたのを想像するとホントにドキドキしますね。(T_T)

    「細川頼春のお墓」の看板・・・お寺の人は気づいてないのでしょうか(涙)
    かわいそうすぎます。

    長旅お疲れ様でした!!ブログで私たちも楽しませていただきました(^^)(一つ一つ、史跡の説明とコメントが書かれてたのでとても分かりやすかったです。)

    次回は史跡巡り本を!?

  3. 木津城はなんでこんなところに公園を作ろうとしたのか意図が不明です。
    行けば分かるんですけど、作っても人が来そうな場所じゃあ無いんですよ。
    やっぱり税金対策ですかねえ・・・TT

    三国志はよく知らないですが、董卓って曹操が出る前に中央を牛耳っていた人でしたっけ?
    う~ん・・・室町幕府が健在の頃は日本人的な感覚で適当なところで見切りをつけていたので、中央を押さえれば良かったんでしょうが、それが上手く行かなくなったのが戦国時代ですもんね。
    地方の有力者の集まりではなく、中央集権にしようとしたのが信長であり、他の地域を制した戦国大名というイメージがあります(毛利や北条は有力者の寄り合いのイメージが強いですが)。

    >しかし、97カ所とは凄いですね!
    ありがとうございますm(._.)m
    史跡は切りのいい100ヶ所行きたかったですね。無理矢理分ければ行くんですけど・・・。
    何にしてもこれからはまっとうに働きます!

  4. 木津城は悲惨なことになってますね!
    くだらない税金対策で無計画に城を削るなんて、その城に関わった人全てに対する非礼だと思います。

    僕の中で三好氏って、三国志でいうところの董卓のポジションとかぶるんですよね(日記と関係ない話ですみません)。
    三好氏も董卓も「中央=天下」という時代に生きていたから、その権限が地方にまで及ぶもんだと思い込んでいた。
    一つの勢力が日本全土を制圧するという発想って、やっぱり信長以降のものだと思います。
    そういう意味では、(時代の変化や地理的な違いはありますが)まず四国統一を目指した元親は、やっぱり四国では希有な存在だったんでしょうね。

    しかし、97カ所とは凄いですね!
    本当にお疲れさまでした。

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