細川幽斎さんと島根県を旅しよう!その3(九州道の記・出雲市編)

(28日のルート。実際の道は考慮せず通過した場所を直線で結んでいます)
28日のマップ(出雲大社)

4月28日:廿ハ日。佐陀を出でて秋鹿といふ所にて、湖水の小舟に乗りて平田まで行くに、「生浦なり」と舟人のいふを聞きて、
『礒枕 恨みやおふの 浦千鳥 見果てぬ夢の 覚むる名残に』
 かやうにして、暮れかかるほどに杵築の社に至りて、宝前を始め末社など、こなたかなだ見巡りて尋ぬるに、当社両神司千家・北島、いづれも国造となんいひけり。その家々見物して、その後旅宿を借り出でて、椎葉ばかりに盛りたる飯など食ひて休み居たる所に、若州の葛西といふ者尋ね来りて対面しける。
 太鼓打つ人にて、若き衆多く同道ありて、一番聞くべきよしあれば、さらばとて催しけるに、両国造より所につけたる肴・樽など使にて送られけるほどに、笛・鼓の役者ども来込みて、夜更まで乱舞ありける。思ひかけぬ事なりき。

 佐太を出て秋鹿(島根県松江市秋鹿町)から小舟で宍道湖を進み平田(出雲市平田町)まで行くと、船頭が「生浦(おうのうら。場所は不明)です」と言うのを聞いて歌を詠んだ。
「磯で寝ている千鳥は恨みを追っているのだろう(生浦の『おう』と『追う』を掛けている)。見果てぬ夢から覚めて名残惜しそうだ」
 日が暮れ始めた頃、出雲大社に着くと宝前(神仏をまつった所の前)や末社などを見て廻って尋ねていると、当社の神主の千家と北島は両方とも国造だと言っているのを知った。その家を見物した後、宿を借りて粗末な食事を休んでいると若狭(福井県南西部)の葛西というものが尋ねて来たので対面している。
 葛西は太鼓打ちで若い人達を多く連れてきて一曲聴いて欲しいと言うので音楽会が始まった。すると両方の国造から地元の肴や樽などが送られ、笛や鼓の役者も入ってきて夜更けまで乱舞があった。幽斎としては思いがけないことになった。

(宍道湖と松江市)
宍道湖

(平田の街並み)
平田の街並み

4月29日:廿九日。朝なぎのほどに、回しつるものども巡り来て、「急ぎ舟に乗れ。日もたけにけり」と言へば、心あはただしくて、
『この神の 初めて詠める 言の葉を 数ふる歌や 手向なるらん』
『逮于素戔嗚尊到出雪国、始有三十一宇詠』
 とあれば、やうやう字の数を合するばかりを手向にしたりといふ心ざしばかりになむ。この短尺を千家方に遣わしけるに、「両司なれば一方へはいかが」と主が言ひける、俄なれば同じ歌を書いてやりける。また、また、当社本願より発句所望なれば
『卯花や 神の斎垣の 木綿鬘』
 かやうに書きやりけるに、千家方より、「今の発句は、北島にて連歌たるべし。わが方にても同じく張行すべし」とて、舟に乗る所に追ひつきて発句所望なり。いそがはしぎに成りがたきよしたびたび申せしかども、所の習ひにや、おりなく申されけるほどに、人の心を破らじとて思ひめぐらす折ふし、郭公(ほととぎす)の名乗りければ、
『郭公 声の行方や 浦の浪』

 朝凪(朝、陸風と海風が吹き変わる時の現象で海辺の風が一時止まること)の頃、加賀から回した舟が辿り着いて
「急いで舟に乗って下さい。日も高くなりました」
 と言うので、慌ただしい中で歌を詠んだ。
「ここは出雲の国に関係した神が初めて詠んだ歌の言葉数に沿って詠むのが手向けになるだろう」
『素戔嗚尊が出雲の国に到達した際、初めて三十一字の歌を詠んだ』と伝わるので、何とか字数を合わせて手向けにしただけの歌である。この短尺を千家に贈ったところ
「両司なのに一方だけはいかがなものか」
 と主人(宿の主人?)が言うので、即座に同じ歌を書いて贈った。また当社の施主から発句を求められたので
「卯の花が斎垣(社など、神聖な場所の周囲にめぐらした垣)にかけてある木綿鬘(物忌(ものいみ)の標識として頭部にかける木綿でつくった鬘。木綿(ゆう)の糸を冠や榊(さかき)などにかけたもの。中古ごろ、神事などに用いられた)のように咲いている」
 と書いた。すると千家家が船着き場まで来て発句を求めた。
「今の発句は北島家の連歌会のものにしましょう。こちらでも同じく連歌会を催します」
 忙しいので作るのが難しいと何度も伝えたが、ここでの風習なのでと強引に求められたため、断るのも申し訳ないと思っていたところにホトトギスが鳴いた。
「ホトトギスの鳴き声の行方を辿ると浦の波からだった」

(出雲大社)
出雲大社

参考文献:新編日本古典文学全集48(中世日記紀行集)、島根県の歴史散歩、島根県の地名



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