細川幽斎さんと島根県を旅しよう!その2(九州道の記・松江市編)

 天正15年(1587年)3月、九州攻めのため豊臣秀吉が進発し細川幽斎の息子・忠興らも従軍したが幽斎は残っていた。しかし在国しているのも気まずいため4月21日に丹後田辺城(京都府舞鶴市)を出発。同月24日には居組(兵庫県美方郡新温泉町居組)に到着し、そこから海路で伯耆を目指した。

(26~27日のルート。実際の道は考慮せず通過した場所を直線で結んでいます)
26日のマップ(御来屋~加賀)

4月26日:廿六日。伯耆国御来屋より舟を出だして、出雪国仁保の関に上がり、見物し待りて、それより磯づたひを行くに、錦の浦といへば、しばし舟をとどめて、
『舟寄する 錦の浦の タ浪の たたむや返る 名残なるらん』
 かやうに口ずさびて、その渡近き加賀(かか)といふ所、漁人の家に泊りぬ。
『あはれにも いまだ乳をのむ 海士の子の 加賀のあたりや 離れざるらん』

 御来屋(鳥取県大山町御来屋)から舟で仁保の関(島根県松江市美保関町美保関のことだと思われる)に上陸し見物した後、磯辺に沿って行き錦の浦(島根県松江市島根町加賀)で舟を停めて歌を詠んだ。
「舟を寄せた錦の浦の夕波が重なっているのは寄せて返す波の名残だろう」
 その後、近くの加賀の漁人の家に泊まり、そこでも歌を詠んでいる。
「哀れだが、海士の乳飲み子は母(『かか』と加賀を掛けている)の近くを離れられないだろう」

(御来屋港)
御来屋港

(美保関)
美保関港

(加賀の潜戸)
加賀の潜戸

4月27日:廿七日。雨風荒きゆゑに、加賀より舟出成りがたかるべきよしを舟人申し侍れば、さらばいたづらに暮さむももの憂しとて、舟をば浪間を待ち回し侍るべきよし申して、杵築宮見物のため徒にてたどり行く。
 道の程三里ばかり経て、木深くて山のたたずまひただならぬ社あるを見巡りて、神人とおぽえたるに尋ね侍りしに
「これなん佐陀の大社なり。神体は伊奘諾・伊弉冉の尊」
 と教へけるに、しかしか物語りし侍るに、日もたけ雨もいたく降れば、衣あぶらんほどの宿り求めてとどまりぬ。
『千早振る 神の社や 天地と分ち そめつる国の 御柱』

「天気が荒れているため加賀から舟での移動は難しいです」
 と船頭が言うので、幽斎は無駄に時間を過ごしてもしょうがないと考えて、タイミングの良い時に舟を杵築大社(出雲大社)に回すように命じて自身は徒歩で向かった。
 3里(約12キロ)程、西に進んだとき、ただならぬ雰囲気の神社があったため見て廻り神職の者と思われる人物に尋ねたところ
「ここは佐太神社(島根県松江市鹿島町佐陀宮内)ですよ。御祭神は伊弉諾尊と伊弉冉尊です」
 と教えてくれ様々な物語をしていたら日も暮れて激しい雨が降ってきた。そこで衣服を乾かせる火のある宿を探して佐太に宿泊した。そしてここでの歌も詠んでいる。
「勢いの強力で恐ろしい神を祀る神社だ。天地を分けられた日本の二柱を祀る当社は」

(佐太神社)
佐太神社

参考文献:新編日本古典文学全集48(中世日記紀行集)、島根県の歴史散歩、美保関町誌、島根県の地名、諸国神社 一宮・二宮・三宮

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