月山富田城(尼子晴久・堀尾吉晴の墓)

●月山富田城
住所:島根県安来市広瀬町富田

 富田城が歴史に登場するのは、1185年、佐々木義清が出雲・隠岐の守護となり入城してからである。その後、城主は塩治氏・佐々木氏・山名氏と代わっていくが、1392年、京極高詮が出雲の守護になり、京極氏の支流・尼子持久が守護代として富田城に入ると長くその支配が続くことになる。

(太鼓壇)

 1478年頃、持久の孫・経久に家督が譲られる。経久は応仁の乱の混乱を利用し京極氏からの独立を企む。美保関の関税や守護段銭を未納し、寺社領を横領するなどの行動に出た。この態度に腹を立てた京極政経は、1484年に経久追討令を出し、出雲の国人達に攻撃させた。
 そのため経久は守護代職を剥奪され追放される。だが1486年の元旦、正月の祝いで盛りあがる富田城に芸人に扮し、わずか150人で紛れ込むと城の者達を討ち取り富田城の奪還に成功している。

(城の対岸にある経久の像)

 それから経久は出雲の征服に成功すると、近隣の伯耆・石見・安芸・備後地方に進出。瞬く間に領土を広げ、山陰・山陽を支配。『十一州の太守』と呼ばれるようになる(これは11ヶ国支配していたという訳ではなく11ヶ国に力が及んでいたというだけ。実際の領土は4ヶ国程度だと思われる)。

(花の壇)

 1537年11月、経久は孫の晴久に家督を譲る。晴久は尼子氏から防長の大名・大内氏に鞍替えした毛利氏を征伐しようと計画する。1540年8月10日、晴久は三万の大軍を率いて富田城を出発。対する毛利氏は八千人ばかりで滅亡は確実と思われていたが、毛利元就の巧みな采配に翻弄され城に攻め込めないばかりか大内氏の援軍が到着し、尼子軍は大敗を喫してしまう。ここから尼子氏の凋落が始まる。

(山中御殿)

 1542年1月、大内義隆は弱体化した尼子氏を討つため大軍を率いて山口を出発。2月には富田城を包囲するが堅固な山城の富田城は容易に落ちず、国人衆が尼子氏に寝返るなどしたため、5月には撤退を余儀なくされてしまう。
 1554年11月、晴久は不仲となっていた尼子氏最大の軍事集団・新宮党を討つ。これにより尼子氏の軍事力は大きく低下してしまう。

(三の丸の石垣)

 1555年に陶氏を厳島で倒しその勢いで大内氏も滅ぼした毛利氏は、宿敵・尼子氏を討つ為、怒涛の勢いで出雲へ攻めこんできた。1560年には晴久が死亡すると、ますます尼子氏の力は弱まり、1563年には富田城を残しすべての城が毛利氏の手に落ちてしまう。

(城西の麓にある晴久の墓)

 力攻めでは落とすのは難しいと判断した元就は兵糧攻めにした。粘った尼子氏であったが、1566年11月28日、遂に元就の軍門に降る。当主・義久以下三兄弟は安芸に護送され、尼子氏の歴史はここで終わったに思えたが・・・。

(二の丸)

 1569年6月23日、尼子氏の旧臣・山中幸盛は、新宮党の遺児・勝久を担ぎ上げ出雲に上陸。尼子氏再興を狙う幸盛は毛利氏の諸城を落とし富田城に迫ったが、城主の天野隆重に退けられてしまう。しかも毛利本隊が北九州から戻ってきたため、布部山で迎え撃つが敗北。伯耆の末吉城に退却し立てこもるが、幸盛は捕らえられてしまった。

(本丸)

(本丸に建つ勝日高守神社。城内の守り神だった)

 だがそんなことで諦める幸盛ではなかった。幽閉されていた尾高城の便所から抜け出すと、京に行き織田信長を頼る。播磨の上月城を任せられた勝久主従であったが、1578年に毛利軍の逆襲にあって上月城は落城。尼子主従は捕らえられ殺されてしまう。
 その後、富田城は出雲・伯耆・隠岐三国の領主・吉川氏の居城となるが、海から遠く不便だったため伯耆の米子城への移城を決める。だが関ヶ原の合戦で吉川氏は周防の岩国に転封。堀尾吉晴が遠江浜松城から移封されるが、吉晴も不便な富田城を嫌い松江に城を建てることを決め廃城となった。

(吉晴の墓)

感想:昔に書いた記事なので説が古いですが、そのまま載せています。最近の説は『山陰の戦国史跡を歩く 島根編』を参考にしてください。
 尼子晴久の墓は本丸から直接行ける道がありますが、石に苔が生えまくっていて滑る滑る!! 皆さん、富田城に行かれたときは危険ですので絶対にここを通るのはやめましょう。本当に危ないですよ(現在は案内板も撤去されています)。




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