備前 周匝茶臼山城(周匝(すさい)城。浦上宗景の家臣・佐々部(笹部)勘斎の居城)

●備前 周匝茶臼山城(周匝(すさい)城)
住所:岡山県赤磐市周匝
駐車場:あり
遺構:曲輪、畦状竪堀群、堀切
標高:171メートル/比高:30メートル

 市指定史跡。北と東に吉井川が流れ、北東で吉井川が大河の吉野川と合流する水運の要衝にあり美作との国境とも近かった。築城年代は不明だが城主は浦上宗景の家臣・佐々部(笹部)勘斎だという。築城者は勘斎の父で天文年間に安芸から来た勘解由との推測が現地の説明にはある。『備前記』では城主は星賀藤内で天文22(1553)年に尼子晴久が美作に攻め込んだ際、茶臼山城も攻められ落城したとある。
 天正5(1577)年、宇喜多直家が浦上宗景の居城・天神山城を攻撃し落城させた際、茶臼山城も宇喜多勢に攻められるが撃退。しかし天正7(1579)年、再び宇喜多勢に攻められ落城し勘斎と息子の仙千代は麓の一ノ谷で戦死した。
 昭和時代後期、当時の吉井町が始めた「歴史とロマンの里づくり事業」により現在は歴史公園として整備されている。

(竪堀A。場所は下にある概略図を参照)
竪堀A

(主郭と思われる曲輪Ⅰ。第二次世界大戦では敵機監視所が設置されるなどして遺構の大半が破壊されたという。模擬(?)城門と模擬天守(展望台)などがある)
曲輪Ⅰ

曲輪Ⅰ

曲輪Ⅰ

曲輪Ⅰ

(模擬天守と内部。見つかった遺物の展示や歴史の解説があった。像は良く分からん)
模擬天守と内部

模擬天守と内部

(模擬天守から南側を望む。中央に流れるのが吉井川)
吉井川

(曲輪Ⅰにある休憩所と竪穴式住居。休憩所は近世末期に吉井川沿いに建てられた商家を移築した。竪穴式住居は発見された大型竪穴遺構の上に復元されている)
休憩所と竪穴式住居

休憩所と竪穴式住居

休憩所と竪穴式住居

(主郭の北にある曲輪Ⅱ)
曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

(主郭の南東にある曲輪Ⅲ)
曲輪Ⅲ

曲輪Ⅲ

(曲輪Ⅲの南東にある曲輪Ⅳ)
曲輪Ⅳ

(曲輪Ⅴ)
曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ

(竪堀B)
竪堀B

竪堀B

(竪堀C)
竪堀C

(畦状竪堀群D)
畦状竪堀群D

畦状竪堀群D

畦状竪堀群D

畦状竪堀群D

(竪堀E。通称・空堀体験コース。鎖があって安全に降りられるようになっていた。竪堀Bと繋がっていると思われるが確認していない)
竪堀E

竪堀E

竪堀E

(曲輪Ⅵと主郭との間にある竪堀(堀切?))
曲輪Ⅵ

(曲輪Ⅶとその周囲の曲輪群。ここは整備されていない)
曲輪Ⅶ

曲輪Ⅶ

曲輪Ⅶ

(堀切F。道路を通す際に分断されている)
堀切F

堀切F

(城の全景)
城の全景

(順番が逆になるが、朝早く出たので途中でお腹が空いて城の近くにある就労継続支援A型福祉の店『きずな』で食事をしてから城に行った。固めのうどんだった)
うどん

うどん

参考文献:岡山県中世城館跡総合調査報告書 第1冊 備前編、岡山県の地名、現地の案内板、改修赤磐郡誌、備前周匝茶臼山城址発掘調査報告書

感想:一般の方にも分かりやすいよう模擬天守がありながら、竪堀なども破壊せず見学しやすくしており駐車場もあります。個人的には整備としては満点でした。
 カーナビで目的地をここに設定すると南側の吉井中学校城南校舎跡方面から行かせようとしますが通れないため、北側の吉井B&G海洋センターから行ってください。徒歩ならどちらでも問題ないと思います。

(概略図。クリックすると別タブが開きます)
概略図


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掲載の縄張図について


美作岩屋城陣城群(宇喜多氏が築いた岩屋城包囲網。荒神ノ上砦、井ノ奥砦、与右衛門ノ上砦、井ノ奥砦、とちの木砦、的場ノ峠砦、遣手場砦、梅ヶ峠砦、石蕨砦、柿ノ木ノ上砦、往還ノ上砦、楽万ノ上砦)

●美作岩屋城陣城群
住所:岡山県津山市中北上
駐車場:あり
遺構:曲輪、土塁、堀切、堀
標高:520メートル/比高:347メートル

 天正10(1582)年、毛利氏と宇喜多氏が和睦し岩屋城は宇喜多氏の領地と決まるが、城主の中村頼宗はこれに従わなかった。これに対して宇喜多氏は大規模な包囲網を敷く。その際に築かれたのが岩屋城陣城群だった。天正12(1584)年、毛利氏の庇護下にあった足利義昭の調停によって頼宗は開城している。

(朝の8時に出発。写真は岩屋城から見た周辺の山。手前にある山々を尾根伝いに進むことになる)
周辺の山

周辺の山

(最初に出てくる荒神ノ上砦。浦上与九郎が守備したという。大まかな場所は一番下にある岩屋城跡と陣城群を参照)
荒神ノ上砦

荒神ノ上砦

(陣城群の名物・長大な土塁)
長く続く土塁

(縄張図の南にある曲輪、だと思う。思うというのは時間が気になって縄張図をあまり見ずに写真だけ撮って次に急いだから、全ての砦でどの位置の遺構を撮ったのか分かっていない。遺構の位置を確認しながら進んでいたら私の体力だと陽が暮れる)
南にある曲輪

南にある曲輪

(更に続く土塁)
土塁

土塁

(縄張図の北にある曲輪、だと思う)
北にある曲輪

北にある曲輪

北にある曲輪

(荒神ノ上砦の縄張図。クリックすると別タブが開く)
荒神ノ上砦の縄張図

(整備されているのはここまで。これから先は倒木などのある道を歩くことになる。と言ってもところどころは整備されている。写真は杉原木工が守備したと伝わる与右衛門ノ上砦)
与右衛門ノ上砦

与右衛門ノ上砦

与右衛門ノ上砦

与右衛門ノ上砦

(井ノ奥砦。小瀨修理太夫が守備したという。この時点で9時なので順調だと思う)
井ノ奥砦

井ノ奥砦

井ノ奥砦

井ノ奥砦

井ノ奥砦

井ノ奥砦

井ノ奥砦

(与右衛門ノ上砦(右下)と井ノ奥砦(中央)の縄張図。クリックすると別タブが開く)
与右衛門ノ上砦(右下)と井ノ奥砦(中央)の縄張図

(とちの木砦。川端右近が守備したという。この時点で9時半)
とちの木砦

とちの木砦

とちの木砦

とちの木砦

とちの木砦

とちの木砦

とちの木砦

とちの木砦

(とちの木砦の縄張図。これは主郭部だけで南北にも遺構がある。クリックすると別タブが開く)
とちの木砦の縄張図

(的場ノ峠砦。長船備中守が守備したという。この時点で10時15分)
的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

(的場ノ峠砦の縄張図)
的場ノ峠砦

(遣手場(はってば)砦。杉原下野守が守備したという。この時点で10時30分)
的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

(遣手場砦の縄張図。クリックすると別タブが開く)
遣手場砦の縄張図

遣手場砦の縄張図

(もっとも北側の削平地。特に名前はない。この折りかえし地点から足取りが更に重くなった)
北側の削平地

(梅ヶ峠砦。江原兵庫助が守備したという。この時点で11時30分。遣手場で小休憩をしたため遅くなったような記憶がある。この辺りは鮮明に分かる曲輪や土塁が特に多かった。ここから南下すれば岩屋城に出られるので、限界だった場合はそうした方がいい。私は行っていないのでコースは各自で調べて)
梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

(コースの途中にある岩屋城へ抜ける道)
岩屋城へ抜ける道

(梅ヶ峠砦周辺の縄張図。クリックすると別タブが開く)
梅ヶ峠砦周辺の縄張図

(梅ヶ峠砦と石蕨砦の間にある遺構。土塁と小さな曲輪があった)
間にある遺構

間にある遺構

間にある遺構

間にある遺構

間にある遺構

(石蕨砦。戸川肥後守が守備したという。この時点で12時30分。動けなくなって30分くらい昼休憩をした)
石蕨砦

石蕨砦

石蕨砦

石蕨砦

石蕨砦

石蕨砦

石蕨砦

石蕨砦

石蕨砦

石蕨砦

石蕨砦

(梅ヶ峠砦を抜けた先(北東)~石蕨砦(南西)までの縄張図。クリックすると別タブが開く)
梅ヶ峠砦を抜けた先(北東)~石蕨砦(南西)までの縄張図

(石蕨砦と柿ノ木ノ上砦の間の遺構。もう足が限界で進むスピードが極端に遅くなった)
間の遺構

間の遺構

間の遺構

間の遺構

間の遺構

間の遺構

間の遺構

間の遺構

(柿ノ木ノ上砦。長船又兵衛が守備したという。この時点で13時30分。もうフラフラで一歩歩くのも辛いくらい。遺構は藪になっており、ほとんど分からなかった。その先の名前のない砦は藪がなく見学が楽だった)
柿ノ木ノ上砦

柿ノ木ノ上砦

柿ノ木ノ上砦

柿ノ木ノ上砦

柿ノ木ノ上砦

柿ノ木ノ上砦

柿ノ木ノ上砦

(石蕨砦を抜けた先(北)~柿ノ木ノ上砦(南)までの縄張図。クリックすると別タブが開く)
石蕨砦を抜けた先(北)~柿ノ木ノ上砦(南)までの縄張図

(往還ノ上砦。斉藤五郎右衛門が守備したという。この時点で14時45分。ここに着くまで迷って谷に降りてしまったため大幅に時間を消費した。ここまで来ると体力ではなく気合いで進んだ)
往還ノ上砦

往還ノ上砦

往還ノ上砦

往還ノ上砦

往還ノ上砦

往還ノ上砦

往還ノ上砦

往還ノ上砦

往還ノ上砦

 ここで一旦、国道181号線に降りた。かなりの急斜面な上に膝が馬鹿になっていたので滑落するかと思った。そして東から楽万ノ上砦に入る。

(楽万ノ上砦の東の土塁。岡平内が守備したという。この時点で15時30分。ここまで来ると時間を気にする必要はないけど)
東の土塁

東の土塁

(楽万ノ上砦の東の曲輪)
東の曲輪

東の曲輪

東の曲輪

東の曲輪

(楽万ノ上砦の中央の土塁)
中央の土塁

(楽万ノ上砦の西の曲輪)
楽万ノ上砦の西の曲輪

楽万ノ上砦の西の曲輪

楽万ノ上砦の西の曲輪

楽万ノ上砦の西の曲輪

楽万ノ上砦の西の曲輪

(往還ノ上砦(西)と楽万ノ上砦(東)の縄張図。クリックすると別タブが開く)
往還ノ上砦(西)と楽万ノ上砦(東)の縄張図

(妙福寺ノ上砦は流石に無理だと思って駐車場に戻った。約8時間かかった。平均的な時間らしい)
駐車場

(そしてホテルで休憩した後、居酒屋に行った。飲まないとやっていられなかった。そしてホテルに戻って気絶するように寝た)
居酒屋

居酒屋

居酒屋

居酒屋

参考文献:岡山県中世城館跡総合調査報告書 第3冊 美作編、岩屋城を守る会

感想:下のルートマップを見てもらえば分かりますが、約13キロで累積標高813mも歩きました。途中で足はつるし上がらなくなるしで入っている山岳保険を使おうかと思うほど過酷でした。駐車場に着いた後も靴を履き替えようとするだけでつる始末。そんな状態だったため妙福寺ノ上砦だけは行っていません。
 こんな過酷な城巡りのコースでも天気が良かったためか数人と会いました。最初、熊かと思いました。

(岩屋城跡と陣城群。クリックすると別タブが開きます)
岩屋城跡と陣城群


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掲載の縄張図について


阿川毛利家墓所(下関市豊北町)

●阿川毛利家墓所(下関市豊北町)
住所:山口県下関市豊北町阿川
駐車場:なし

 吉川元春の次男・元氏を祖とし長州藩の一門家老だった阿川毛利家の墓所である。ただし5代目までは別の場所に葬られたため、6代目からである。

(入口)
入口

(墓に向かう途中にある郷校・時習館址の碑。郷校とは地方の私学校で宝暦3(1753)年に毛利広漢が建てた。この近くに阿川毛利館跡があるのだが見つけられなかった)
時習館址の碑

(墓所の様子。誰の墓か標柱があり確認しやすい)
墓所の様子

墓所の様子

墓所の様子

(墓所から阿川浦がよく見える)
阿川浦

参考文献:山口県の地名、豊北町史2、現地の案内板

感想:自分が参拝した後の2023年に萩に葬られていた毛利親彦の墓もここに移転されたそうです。