中国・九州史跡巡り2010(8日目後半:松平忠直の霊廟・府内城・大友屋形跡)

75.浄土寺・・・大分市王子西町8―35。徳川家康の孫で越前の大名だった松平忠直の霊廟がある。乱行を幕府に咎められ豊後に流され、この寺に埋葬された。
感想:住職さんが気さくな方だった。霊廟内の撮影許可、ありがとうございました!

(忠直公廟)

(霊廟内部。奥の中央が忠直の逆修塔(生前に建てる墓石)。手前右側がのちに建てられたもの。奥の左は忠直の愛妾・お蘭の墓)

76.神宮寺浦公園・・・大分市勢家4-6-87。16世紀、この辺りに南蛮船が来たと推定さ建てられた。
(南蛮貿易場址の碑)

(大友宗麟の像。これから大分県内で何度も宗麟の像を見ることになる)

77.府内城・・・大分市荷揚町4。1597年、石田三成の妹婿・福原直高によって築城された。その際、用材を領内の他、長宗我部氏にも提出を求めたという。1599年に福原氏が改易になると早川氏が入ったが関ヶ原の戦いで西軍に付き改易。竹中重利が入り城の増築を行ない城下町を整備したが、息子・重義の代に改易された。続いて入った日根野氏も1代で断絶。しかし大給松平氏が入ると安定して明治維新まで藩主となる。現在は城趾公園となっており、城内には大分県庁・文化会館などがある。
感想:大給松平家は二万石だったそうだが、城は豊後一国を支配していてもおかしくないような規模である。維持が大変だったのではないだろうか・・・。

(堀と復元櫓)

(廊下橋。二の丸と山里丸を結んでいる)

(復元櫓その2。どれが何という櫓か確認する余裕がなかったので名前か分からない><)

(大友宗麟の胸像。でも、宗麟と府内城はいっさい関係がない。大分県の英雄だからということで建てられたのだろう)

78.遊歩公園・・・大分市大手町。
(伊東ドン・マンショ像。顔が微妙・・・。似たような顔のおばちゃんが近所にいた記憶がある)

(西洋音楽発祥記念碑と像。日本人の子供の表情が間抜けなこと)

(すぐ近くの大手公園にあるザビエルの像)

79.大友氏遺跡・・・大分市顕徳町3。大友宗麟の館跡。京都の花の御所を忠実に再現した守護館だったといわれる。
感想:何の工事をしていたのか良く分からないが工事中だった。

80.大友屋形跡・・・大分市上野丘西10。大友氏の館跡。13世紀後半に築造され次第に整備されていったといわれる。大友宗麟の父・義鑑が殺された「二階崩れの変」はここで起こったと伝わっている。現在は碑と天満宮があるのみ。
感想:大友氏遺跡との違いが良く分からなかった。大友氏遺跡は宗麟が新たに造った館で大友屋形跡はそれ以前に使用されていた館だったんだろうか? 大友氏に関する資料を見ればすぐに分かるんだろうが・・・。

(館跡全景)


81.松平忠直居館跡・・・大分市津守。松平忠直が豊後に流された際、住んだ屋敷跡。敷地は2200坪もあったという。忠直は当地で寺社仏閣の再建などに力を尽くした。現在は碑があるのみ。
感想:結構、忠直は自由を許されていたんだな。押し込められていたようなイメージがあっただけに意外。
 ここは道が狭い上にバスが通るので車での移動が非常に大変だった。


82.松平忠直の墓(六角堂)・・・大分市津守。上記の館跡に霊廟が建てられたが明治になって別の場所に移され、1927年に現在地に移され六角堂が新築された。
感想:ここの登り口の看板に「真田栗毛」というのがあって「何だろうな~」と思っていたけど、疲れ切っていたので行かなかった。後で調べたら真田幸村の馬を忠直が愛馬にしており、その馬を葬った墓だったそうな・・・。真実では無さそうだけど行っとけば良かった。
 ここは迷った。とにかく迷った。近くまで来たんだけど山の裏側に出てしまい登り口が分からず散々うろついた。

83.大友宗麟の像・・・大分市要町(大分駅)。
感想:ほんま、宗麟の像はえっとあるね。それだけ大分市民から慕われているのだろう。岡崎市は徳川家康の像が4体もあるのに、まったく慕われていないけど(名前くらいはさすがにみんな知っている)。

 これで終了。よ、予定通り全部行けた・・・。絶対無理だと思った。ホテルに戻って風呂入ってすぐ寝た。明日は九州旅行の中でのメインが待っているので。
本日の感想:別府市があんなに坂だらけだとは思わなかった。自転車での移動は辛そう。あと別府市って山の中にある海のない市だと思っていた。湯布院と勘違いしていたんだと思う。

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