住所:奈良県葛城市當麻1263
浄土宗・真言宗並立。612年、用明天皇の第3皇子・麻呂古王が兄の厩戸皇子(聖徳太子)の教えを受けて、大阪府交野市(太子町とも)に万法蔵院を建てたのが始まり。その後、麻呂古王の孫・当麻真人国見が現在地に移している。
1180年、平家の南都攻めの際に興福寺の末寺だった当寺も攻撃を受け、金堂が大破、講堂が焼失している。1184年に金堂が再建され、1242年頃に源頼朝が施主となり再興された。1370年、境内に浄土宗の往生院が建てられ真言宗と浄土宗が並立するようになる。
中将姫ゆかりの地としても知られる。姫は右大臣・藤原豊成の娘で寺に伝わる曼荼羅を織ったとされる伝説上の女性。天平年間(729~749年)、当寺に入山し仏行に励んだ姫は、その徳により仏に会い、一晩のうちに蓮華の糸で曼荼羅を織りあげ、女人の身ながら極楽往生したと伝えられる。姫の出家の動機を継母による継子虐待の物語として歌舞伎、浄瑠璃、謡曲などに脚色されている。
境内には11の塔頭があり、本堂や金堂など国宝や国重要文化財の伽藍が多数ある。
(中之坊。役小角が道場として開き、その後に真言宗の霊場となっている)
(大和三名園の一つ・香藕園。片桐石州(片桐貞昌。片桐且元の甥)が改修している)
(中将姫誓いの石。姫が寺に入る際、女人禁制だったため許可されなかったが、入りたい一心で三日間念仏を唱えたところ、この足跡がついたという)
感想:寺の規模の割には駐車場が少なく駐めるのに苦労しました。