2012年四国史跡巡り(3日目その4:中平之房・津野定勝の墓)

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19.中平善之進の墓・・・高知県高岡郡檮原町川西路2304。江戸中期に生まれた上岡次正の息子・善之進は、津野山郷の大庄屋・中平定経の養子となり中平姓を名乗る。1752年、財政が逼迫した土佐藩が問屋を指定し農民の生産物を不当に買い叩いたため農民は猛反発。善之進らは問屋・蔵屋利左衛門の配置転換を願い出たが取り上げられなかったため上訴を計画した。しかし密告者のため失敗に終わる。
 藩は責任者の善之進らを捕まえ利左衛門と対決させた。善之進は利左衛門の不正を徹底的に追及したが結局二人とも死罪となり、善之進は1757年に斬首される。その後、高知城周辺や檮原町で暴風雨が起こったため、善之進の祟りと恐れられ各地に祠や塚が建てられた。
感想:義民として讃えられ檮原町内のあちこちに善之進に関する史跡が残っています。

(善之進とその妻と末子の墓)

(その北隣に1977年に建てられた津野家累代之墓。中平氏が津野氏の分家だった関係だと思う)

20.化粧坂の茶堂・・・高知県高岡郡梼原町梼原。六志士の墓の近くにある。旅人の接待と津野氏の霊を慰めるために藩政時代に建てられた。地元民の社交の場としての役割も担っていた。
感想:津野氏が如何に慕われていたのかが分かる史跡。

(茶堂)

21.中平氏累代の墓・・・高知県高岡郡梼原町梼原。津野親忠に仕えた中平駿河守之房らの墓がある。
感想:ここはどこに問い合わせても不明で絶対に分からないと思っていたので、見つかった時は嬉しくて泣きそうになった・・・。教育委員会の建てた標柱はあったのだが忘れられてしまったらしい。
 幕末の頃の方の墓には武市半平太との絡みが書いてあった。

(中平之房の墓。累代の墓の一番上に建つ)

中平光義の墓。津野氏滅亡後は檮原の庄屋となっている)

(中平之信の墓。津野親忠が切腹を強要された際、父・之房の命で藤堂高虎に事情を訴えている。標柱に説明が二つあって、もう一つには1598年3月に伏見の土佐邸で亡くなったとあったのだが・・・。どちら何だろう)


 この後、津野勝興の墓を探したのだが見つからず諦めた。地元の方に場所を教えてもらって愛媛県側まで行って山の中を彷徨ったが分からなかったので・・・。それにあまり時間をかけていると土砂崩れに巻き込まれそうな場所だったのも途中で切り上げた大きな理由だった。

22.中平常定の墓所(長平庵)・・・高知県高岡郡梼原町竹の藪76。常定は津野之高の嫡男だったが津野家を継ぐことができず、中平姓を名乗り中平家の祖となっている。晩年、この地に住み亡くなったため息子の忠光が霊廟を建て馬頭観音も一緒に祀った。1665年と1789年に中平家の末裔が再建している。
感想:次の目的地に行く途中に偶然見つけたので詳しい場所は覚えていない。

(長平庵)

23.津野定勝の墓・長生庵・・・高知県高岡郡梼原町松谷701。長宗我部元親についた家臣に追放された定勝は伊予に落ち延びたのち、ここ松谷に戻って余生を過ごしたという。長生庵は定勝と観音を祀っている。
 以前は別の場所にあったが1943年にこの地に移された。墓もこの上の山中にあった同じ年に移されている。

(長生庵)

(津野定勝の墓。定勝にはここ以外にも伊予で亡くなった説もあって、そちらにも墓があるらしい)

 ここで史跡巡りは終了。久万高原町経由で松山市のホテルに向かった。県境附近が予想通りの悪路で難儀したTT 高知での三日間は楽しかったけどハードだったので、この日はお酒を飲む気力も無くすぐに寝た。


本日の感想:檮原で津野氏のことを聴くと「津野様の・・・」と様付けだったのが印象に残っている(あと
中土佐町の「佐竹様」も)。地元では今でも慕われているんだなあ、としみじみと感じた。
 大雨&道が狭いところが多く運転には苦労した上にびしょ濡れになったけど、有意義な一日を過ごせた。

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