鹿児島県史跡巡り2009(1日目後半:島津歳久の墓・仙巌園・島津宗家の墓・鹿児島城)

7.平松神社・・・鹿児島市吉野町にある。島津四兄弟の三男・歳久が豊臣秀吉の命で自害させられると、義久は心岳寺を建て菩提寺とした。しかし廃仏毀釈で心岳寺は廃寺となり平松神社となる。歳久の墓は現在でも存在する。
 ここはとにかく行きづらい!!神社の向かいに停車場があるんだが、ここからガードレールのある国道10号線を越えた後に、遮断機の無い日豊本線を越えていくという試練が待っている。観光地なら歩道橋とかつけて・・・。

(これですよ・・・。何とかして)

(島津歳久の墓)

8.尚古集成館・仙巌園・・・鹿児島市吉野町磯にある。
 まあ、観光地ですわ。尚古集成館には例の義弘の肖像画があった。

(猫神さま。朝鮮出兵の際に猫を連れて行き、目の変化で時間を知ったという。その猫の中で生き残った2匹を祀った神社)

(桜島。天気が良かったらなあ・・・)

9.ザビエル上陸記念碑・・・鹿児島市祇園之洲町にある。1549年、この辺りに上陸したと言われている。

(宙に浮くザビエル)

10.御石様(御石神社)・・・鹿児島市吉野町にある。歳久がここで休憩した関係で神社に歳久が祀られることになった。
 歳久は安産の神様として知られている。理由は、割腹の際「女性がお産をする時もこのように苦しいのだろう。死後はお産を助けてやろう」と言ったことに由来する。
 あと理由はよく分からないが、仇討ちに出る者は必ずお参りしていったという。
 お産も割腹も多分、縁がないと思うが来てみた。歳久は鹿児島県では非常に慕われていたらしく、県北西部の7ヶ所に墓、17ヶ所に供養塔(石)がある。歳久の官位が左衛門督だったので「金吾さあ」と呼ばれ親しまれているそうな(「御石様」とも呼ばれている)。
 供養塔と墓を合わせて24ヶ所って・・・。「金吾さあ」スタンプラリーが出来そうだ。

11.福昌寺跡・・・鹿児島市池之上町にある。島津宗家の菩提寺。大寺院だったが、廃仏毀釈で破壊され当主の墓だけが残った。
 明治維新の立役者となった藩の当主の墓地とは思えないほど寂しい。面積はそこそこあるが、高校の裏にひっそりとお墓があるだけ。長州藩の毛利家墓所とは大違いだ。しかも廃仏毀釈の影響で、墓石には神号が追刻してあるし。う~ん・・・。


12.鹿児島城・・・鹿児島市城山町にある。島津家18代当主・家久が1602年に築城を開始し、1604年に完成した。明治維新後は火事と西南戦争で建物が焼失。現在は堀と石垣が残っている。

13.ジメサア像・・・鹿児島市城山町にある。島津家18代当主・家久の妻で、義久の娘だった持明院の像。持明院は器量があまりよくなく家庭的にも不幸だったが、その人間性から尊敬されていた。いつ頃からか美しく幸せでありたいという願いを込めて化粧されるようになった。
 仙巌園のそばにある鶴嶺神社は持明院も神の一人として祀っており、お参りすると美人な子が育つ、または美人になれると言われている。

14.内城・・・鹿児島市大竜町にある。島津貴久によって築かれた城で長い間、島津家の居城となったが、1604年、鹿児島城に移ったため、廃城となった。その後、大龍寺が建てられ、南浦文之が住職を務めている。現在は大竜小学校となっている。
 碑しかない。小学校に平日に行くので、事前に連絡を取ってから行った。ご案内していただいた先生の説明によると、ここの隣で篤姫が生まれて、ここ大龍寺で遊んだこともあったらしい。

 本日はこれにて終了。

感想:今後の日記もそうですが、鹿児島県の有名人のお墓は基本的に神社か野原の中にあります。理由は明治の廃仏毀釈で薩摩藩領の寺院は徹底的に破壊され、その後に神社を建てられたか、何もせずに墓だけ残ったからです。
 近所の方が管理されていると思いますが、管理者がいないお墓ばかりというのは何とも寂しい感じがします。

写真の提供についてはこちらをクリック


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA