四国・山陰史跡巡り2011(3日目:金刀比羅宮・財田常久の墓・大野治長の墓)

 2011年5月1日(日)、実家に帰る前に少しだけ香川県西部の史跡を廻った。

15.財田城(本篠城)・・・三豊市財田町財田中。築城年代・築城者ともに不明。財田氏の居城。南北朝時代に南朝方に属したため、北朝方に落とされた。戦国時代には讃岐に侵攻してきた長宗我部元親によって落とされている。四国征伐後に廃城。
 土塁・堀切などが良好な状態で残っている。南以外は厳しい斜面となっており、北側からの攻撃を意識した城となっている。
感想:登ろうと思ったが、危険だと聞いたので麓で引き返した。道が悪く運転に難儀した。

(麓にある城址碑)

(長宗我部軍の攻撃で落城した際、伯母たちが身を投げた伯母淵に建つ龍王神社。伯母淵の正確な位置は分からなかった)

(この辺りが伯母淵かな、と思って神社から写した沢)

16.伝・財田常久の墓・・・三豊市財田町財田中。財田城主。1578年、長宗我部軍と戦って戦死した。
感想:個人宅を通る必要があるため必ず声をかけて許可を取ってから行くこと。


17.金刀比羅宮・・・仲多度郡琴平町892-1。農業・漁業・航海・技芸などの神様として全国各地で信仰されている金刀比羅宮の本宮。
感想:知り合いとの会話。「金比羅山に行くんだよ」「なんだ、それ? どこにあるの?」「香川県」「へ~、きんぴらごぼうみたいなやつか? それより香川県ってどこ?」「もういいよ・・・」。金比羅山って有名じゃないんだ・・・。

(門前町は相変わらずの人)

(大門。1649年、高松城主・松平頼重が建立)

(今治造船が奉納したプロペラ)

(賢木門。1582年10月に元親が寄進。急いで建立したため柱を逆に用い逆来門と呼ばれた。のちに現在の字に変わる。これを見るために金刀比羅宮に来た)

(裏側から見た賢木門)

(一番奥にある厳魂神社)


18.讃岐国分寺・・・高松市国分寺町国分。
感想:次の目的地と隣接していたので、ついでに参拝しただけ。

(讃岐国分寺跡。聖武天皇が鎮護国家、五穀豊穣のため、741年詔して、国ごとに造営させた官寺。正しくは、金光明四天王護国之寺。広義には国分尼寺をも含めていう。現在は讃岐国分寺跡史跡公園として整備されている)

(讃岐国分寺跡の伽藍模型)

(国分寺本堂。讃岐国分寺跡史跡公園内にある。真言宗大覚寺派の寺。山号は白牛山。737年行基の草創。四国八十八か所の第八〇番札所。「ここは宗教法人国分寺であり『跡』や『公園』ではありません」と注意書きがしてあった)

19.宝林寺・・・高松市国分寺町国分2080。讃岐国分寺跡史跡公園内にある。真言宗。大野治長が大坂夏の陣後、当寺に落ち延びたとの説がある。
感想:大野治長生存説については詳しいことは不明。

(山門)

(宝林寺北東にある大野治長の墓。江戸時代には五輪塔があったらしいのだが、いつしか土盛りだけになってしまった。昭和の頃は木札や花立てなどがあったが、それらも撤去されてしまい、写真のような状態となる。地元の方に案内してもらって辿り着いた)


20.香川民部少輔の墓・・・坂出市西庄町。香川信景の同族。西庄城主だったが、羽床氏によって備後に追われる。その後、毛利氏の力を借りて復帰した。
感想:民家の横にある。ここは民部少輔の忠臣・宮武源左衛門行光の墓がある場所として知られているらしい。

(中央が民部少輔、右奥が宮武源左衛門の墓)


 ふう・・・、まだ昼だったけど疲れたので、近くの瀬戸大橋を使ってそのまま実家に帰った。
本日の感想:大野治長の墓は初めて見た(伝、だけど)。他県にもあるのだろうか・・・。
 丸亀辺りでうどんを食べた。まあ・・・美味しかったよ(味を表現するのは苦手)。ここに貼ってあった『一杯食べたら一票よ』のポスターが印象に残っている。香川県民は本当にうどんを愛しているんだな。
 明日からは蕎麦の国・出雲を中心に回ります。

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