中国・九州史跡巡り2010(7日目前半:門司城・高田又兵衛の墓・小倉城)

 2010年8月17日(火)、高速道路の夜間割引を使うため朝の3時半にホテルを出発。途中、山口県のPAで寝て休憩していたので朝の7時半にようやく北九州市に上陸。

57.門司城・・・北九州市門司区門司。源平合戦の時代、平知盛が源氏との戦いに備えて築城したのが最初といわれている。戦国時代には、大内氏と大友氏、大内氏滅亡後は毛利氏と大友氏が九州の入り口に当たるこの城をめぐって激しい争奪戦を繰り広げた。一国一城令によって廃城となる。
感想:遺構らしきものはほとんど見当たらなかった。和布刈公園は何度も来ているが城に行くのは初めて。

(本丸跡にある碑)

(下関方面を望む)


58.福聚寺・・・北九州市小倉北区寿山町6-7。小倉藩主となった小笠原忠真が菩提寺として創建した。大寺院であったが、1866年の第二次長州征伐で建物の多くが焼失し、しかも長州藩が本陣としたため荒廃した。
感想:小笠原忠真廟所はお寺から少し離れたところにあり、しかも入ることが出来なかった。残念・・・。

(境内)

(小笠原忠真廟所)


59.生往寺・・・北九州市小倉北区京町4丁目4-37。槍の名人として知られる高田又兵衛の墓がある。
感想:参拝は自由なんだけど、柵に囲まれていて案内板を読むのと写真を撮るのに非常に苦労した・・・>< 魚眼レンズでもない限り、全体は撮れんで。

60.小倉城・・・北九州市小倉北区城内2-1。1569年、毛利氏が城を築いたといわれる。関ヶ原の戦い後、細川忠興が改築し城下町を形成した。細川氏が肥後に移封された後、新しい城主となった小笠原氏の居城となる。しかし1866年の第二次長州征伐で長州藩に破れた小倉藩は撤退の際に自ら火を放ったため、建物の全てが灰燼に帰した。現在の天守閣は1959年に復元されたものである。
感想:10年振りやのう。近くにでっかいショッピングモールができていた。小倉城といえばバーベキューをやっている人がいるというイメージがあったのだが、この日はいなかった。

(堀と石垣)

(旧第十二師団司令部の正門)

(復元天守入口では小倉城マスコット・とらっちゃがお出迎え)

(復元天守)

(大手門跡)


61.浄喜寺・・・行橋市大字今井1802。浄土真宗のお寺。村上水軍の流れを汲んでいる。石山合戦の際、住職の良慶は領民を連れて西に向かい、途中、安芸の門徒とも合流して近畿に上陸した。そして合戦で教如から「命の恩人」と呼ばれるほどの活躍をしている。石山合戦後は上杉景勝に加勢するため越中に向かうが、本能寺の変が起こると九州に戻った。細川・小笠原氏の庇護を受けている。
感想:次の目的地である天徳寺と勘違いして「宇都宮氏のお墓はどこですか?」と聞いてしまった。それでも住職さんがいい方でご丁寧に本堂などを案内してくださった。失礼しました・・・。暑さで頭がやられていたということで許してください。

(山門)

(本堂)

(村上水軍井戸。昔は海のすぐそばにあり村上水軍の城があったらしい)


62.天徳寺・・・築上郡築上町大字本庄361。宇都宮氏(城井氏)の菩提寺。宇都宮長甫・鎮房・朝房の墓がある。宇都宮氏は伊予への移封を拒み、最後は黒田如水に誘殺されたことで知られる。
感想:とにかく山の中を走ったという印象がある。

(宇都宮鎮房の墓)


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