運正寺(結城秀康菩提寺)

住所:福井市足羽1丁目18ー1

 浄土宗。1607年に結城秀康が亡くなると、父・徳川家康の命で創建される。秀康は初め曹洞宗の孝顕寺に葬られた(結城家は曹洞宗だった)が、徳川家(松平家)が代々浄土宗だったことから家康が激怒。家臣が慌てて10日ほどで洗光院を建て改葬したという伝承が残っている。
 のちに現在の運正寺と改称した。越前松平家の庇護を受け大伽藍を誇ったが、1945年の福井空襲で焼失してしまう。1952年に現在の建物が再建される。

(入り口)

(葵の紋が入った石塔)

(本堂)

(案内板に描かれていた戦前の運正寺。この風景が見たかったな・・・T_T)

感想:浄土宗じゃないからと家康が怒ったそうだが、越前松平家の菩提寺・大安禅寺は臨済宗だけど・・・。徳川家と言うより家康個人のこだわりだったのだろうか。


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運正寺(結城秀康菩提寺)」への4件のフィードバック

  1. >みょうこうさん

    あけましておめでとうございます! 本年もよろしくお願いします。

    菩提寺と菩提所の違いについて詳しく説明してくださり、ありがとうございましたm(_ _)m
    大雑把な言い方をすると、菩提寺がメインで菩提所がサブみたいな感じなんですね。
    高野山の奥の院は仰る通り、総菩提所でした^^;
    あそこに本墓がある方は基本的に真言宗徒なんですね。

    東京の浄土寺は余計でした^^; 参考にした本が図書館から借りたものなので今度、確認してみます。
    それではまた何かありましたら、書き込んでやってください。

  2. あけましておめでとうございます。

    菩提寺と菩提所については大名研究家の間でも用語の齟齬がありましていまいち定義がはっきりしていないのが現状です。家の宗旨の寺院で葬儀を司り、基本的に本墓が建立されるのが菩提寺で、その他の宗旨だが、藩主が特別に帰依した僧侶がいた寺院や、その地域で特に由緒のある寺院に、自分の墓所や先祖の供養塔などを建立したりした場合は菩提所、という使い分けでしょうか。結城秀康や越前松平家の供養墓は高野山奥之院にもありますから高野山も菩提所ですね。まあ奥之院は全国の大名の総菩提所でありますが。

    江戸の浄土寺はその浄土寺だと思いますが、僕もお参りしたことがないので確認しきれてません^^; また色々と教えて下さいませ。

  3. >みょうこうさん

    こんばんは。ツイッターではいつもお世話になっております。
    どなたか疑問に答えてくださると嬉しいな、とは思っていたのですが、まさか専門家の方からご回答をいただけるとは・・・。感激です。

    松平家・徳川家は浄土宗なんですね。言われてみればこちらにある大樹寺も浄土宗でした。
    永平寺の松平公廟所も菩提所という扱いになるという解釈でよろしいのでしょうか。

    ただ申し訳ないのですが、私の不勉強で菩提所と菩提寺の違いが分からないです・・・。辞書を引いても同じ意味として載っていました。

    江戸の浄土寺は東京都文京区白山にあるお寺ですか? 忠直の供養塔があるということで昔、参拝させてもらった記憶があります。空襲で境内が縮小されてしまったのでしょうか・・・。

    せっかく書き込んでいただいたのに、質問ばかりになってしまって申し訳ありませんm(_ _)m
    改めて今後ともよろしくお願いします。

  4. いつも楽しく拝見しています。
    松平家の菩提寺について少し申し上げますと、徳川一門の宗旨は浄土宗であり(徳川将軍家は増上寺が菩提寺)、松平家も明治時代までは運正寺が菩提寺でした。ただ4代光通が禅僧大愚宗築に帰依して建てた大安寺にも歴代藩主の墓地があり、その理解を難しくするのですが、大安寺はあくまでも菩提所であり、菩提寺ではありません。同じように5代・7代の藩主であった吉品も足羽山の麓に瑞源寺を建てて自分の墓所としましたが、ここもあくまでも菩提所という扱いです。歴代藩主は幕末の慶永、茂昭をのぞいては皆運正寺か江戸の浄土寺(いずれも浄土宗)で葬儀をしています。

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