紀伊半島史跡巡り2008(3日目:紀州徳川家の墓・紀伊太田城・雑賀孫市の墓・根来寺)

 平成20年1月28日、美浜町のホテルで6時半に起きる。朝食を食べて出発。今日は昼から雨が降るらしいので早めに終わらせておかないと・・・。
 朝一番で行ったのは湯浅町別所の勝楽寺の裏にある紀伊国文左衛門生誕地の碑。まあ、通るついでということで・・・。さっと車を停めてさっと撮影して終了。
 次は同じ湯浅町にある湯浅城。ここら辺の豪族・湯浅氏の城だ。現在は国民宿舎が建っており、雰囲気を壊していることこの上ない。

(国民宿舎・湯浅城。実際の城跡はこの前にある山。現在は私有地となっており立ち入り禁止、って近所の方が言っていました)

 続いて海南市にある長保寺に向かう。紀州徳川家の菩提寺として有名なところである。が・・・着いたのが朝の9時だったので人気無し。おまけに本堂から歴代の墓に行く道も鍵がかけてあるし。せっかく来たのに・・・。と思って帰ろうとしたら女性の方が下から本堂に向かってきた。
「すいません、遅くなっちゃって。今、開けますから」
遅刻ですか!?びっくりさせないでよ。とにかくお金を払って歴代の墓を廻る。やっぱり天下を獲った息子の家の墓はでかいなあ。

(初代藩主・徳川頼宣の墓。この人以外はほとんど知らなかった)

 長保寺が終わったので、いよいよ和歌山市に突入。最初は雑賀衆でおなじみの雑賀に行く。雑賀城っていうのがあるらしいのだが、結局場所が分からず、その周辺を廻っただけになってしまった。

(雑賀から見た海。どうもこの辺りに雑賀城があったらしいのだが・・・)

 気を取り直して和歌山市秋葉町にある弥勒寺山城に行く。ここは裏から行ったもので分かりづらかった。取りあえず車を停めるところは結構あったので良かったが。ここは案内板が一つあるだけ。寂しいものである・・・TT 現在は公園となっているところを撮影して終わる。
 次からは市街中心部に入りお寺を廻る。途中で和歌山城が見えたので寄りたかったが、我慢・・・。時間もないし、二度も廻ったしな。しかし和歌山県に入って初めての町中の運転だったので町中を走る感覚が戻らん・・・。やっぱり道は田舎がいいなあTT
 苦労しながら着いたのは和歌山県和歌山市小人町南ノ丁3-1にある西岸寺。大坂夏の陣の際に父親の安藤直次に「犬に喰わせよ」という名セリフをはかれた安藤重能のお墓があるところである。本堂の隣にある墓地に行くとど~んとそびえていた。

(安藤重能のお墓。でかい。ということで実際に犬に喰わせてなんかいません。大切に葬られています)

 それからすぐ近くにある和歌山市道場町1ー1の海善寺に行く。ここの目的は李真栄のお墓。分かりやすく墓地の入り口に案内があった。尋ねてくる方も多いのでしょう。

(李真栄と息子・李梅渓の墓)

 今度は上記二つからちょっと離れた和歌山市太田529の来迎寺に。ここには豊臣秀吉の水攻めで有名な紀伊太田城の碑がある。ここらへんが本丸だったらしい。歩いてすぐのところに戦いで亡くなった人のための慰霊の塚(小山塚)もある。

(太田城の碑)

 他にも堤の跡や移築門があるらしいがパスして、鷺ノ森別院に行った。鷺ノ森別院は言うまでもないことだが、わずか数年間とはいえ浄土真宗本願寺派の本拠地だった場所。今は何度も火災にあってすっかり新しくなっていた。

(鷺ノ森別院の本堂。中では隣の保育園児達の学芸会のようなものが催されていた様子だった)

 今度は川を越えて和歌山市平井252の蓮乗寺に行く。ここに雑賀孫市の墓がある・・・らしいのだが、別人説もあるらしい。良く知らないけど雑賀孫市自体、いろんな説があるみたいだし。

(雑賀孫市の墓?)

 更に和歌山市の中心から離れて和歌山市直川977の浄永寺に到着。ここは道が狭くて苦労した・・・。一応駐車場があったけど、そこまで行くのが大変だったので、近くに停めて歩いていった。
 肝心の浄永寺だが、ここには石山合戦で戦死した方の供養碑がある(実際は生存中に自分を供養するために建てた碑らしい)。

(石山合戦の供養碑)

 これで和歌山市内は終了。いよいよこの旅の最後である岩出町根来の根来寺に行く。締めにはふさわしい場所ではないか。新義真言宗総本山で、戦国時代には70万石の寺領と大量の鉄砲で武装した戦国大名並みの力を持っていたらしい。
 平日の月曜日なのであまり観光客もおらず、ゆっくりと中を見て回る。

(本坊)

(本坊の中にある庭)

(根本大塔)

 やっと全部の予定が終了。疲れた・・・。でも、この時点で14時半なので家に帰ってもまだまだ余裕があるので良かった。雨も降らなかったし。
 そしてそのまま高速道路を使って名古屋まで戻った。

感想:行く前は面倒だったが、行くと「行って良かった」と感じた。久しぶりだなあ、こういうストイックというかひたすら史跡巡りだけの旅というのは。疲れるが満足感はあった。

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紀伊半島史跡巡り2008(2日目:熊野那智大社・安宅一族の墓・三段壁・紀伊田辺城・上野山城)

 平成20年1月27日、朝6時に起きる。ああ、良く寝た。では食事を取って出発。取りあえず近くの海岸で那智湾の朝日を見る。

(朝日。う~~ん、微妙)

 那智と言えば那智の滝。ということで朝の7時半に熊野那智大社に到着。うお・・・当たり前だが、びっくりするくらい誰もいないぞ。しかも駐車場も空いていない>< そこで次の目的地だった阿弥陀寺へ先に移動する。阿弥陀寺は女人禁制の高野山に変わりに、詣でる女性が多く女人高野と言われていたそうな。
 到着すると当然ながら誰もおらず、ゆっくりと境内を廻る。

(阿弥陀寺に行く途中にあった見晴台から見た太平洋。逆光でほとんど見えない・・・。朝日が出たばかりの頃だったら綺麗だったんだろうな)

(阿弥陀寺本堂。大層なものを予想していたが普通のお寺だった)

 ここで時間が8時を過ぎたので駐車場が空いたかなあ、と思って那智大社に戻るとちょうどおじさんが入り口を空けているところだった。やっと車を停めることが出来て那智大社に向かう。あ~、人気がないときの立派な神社っていいなあ・・・。

(那智大社の鳥居)

(那智大社の本殿。神社の皆さんはこれから仕事開始。出勤時間は8時半なのかな?)

 これで熊野三社の本殿に参った。取りあえず第一の目標は達成。次は生きている間に一度は行ってみたかった那智の滝に行く。本殿から滝の方を見ると結構遠いな。でも駐車場に戻るのも面倒だから歩くか、ということで那智の滝まで歩いて向かう。

(その途中で撮影した三重の塔と那智の滝。定番中の定番の写真)

 そこからまた滝まで歩く。意外と近かった。すでに9時を過ぎていたのでさすがに観光客が増えてきており、バスツアーの人達に紛れながら滝に到着。おお・・・やっぱり近くで見ると迫力が違うぞ~。さすが日本最大の落差を誇るだけはある。

(那智の滝その1)

 上記の写真に見える鳥居から奥に行くにはお金を払わないといけないので、受付の巫女さんにお金を払ったが、その時、すんごく寒そうだったので、近くにいた宮司さんっぽい人に「寒くないですか」と聞いたら、「寒いです」と即答。周りの神社関係者の方も頷いていた。何か羽織っちゃ駄目なのかな・・・。そんなこんなで那智の滝を更に近くで撮影する。

(那智の滝その2)

 これで長く滞在した熊野那智大社は終了して、続いて紀伊半島を一周するために下界に戻り、国道42号をひたすら走る。道は空いていて非常に走りやすい。やがて次の目的地、橋杭岩に到着。史跡とは関係なし。ただ単に景色が撮影したかっただけ。

(橋杭岩)

 撮影が終わるとすぐに出発。そしてすぐに串本町の島にある樫野崎灯台に到着。ここは戦国の史跡とは関係がないが、有名なエルトゥールル号事件の舞台となった場所である。やっぱり串本町に来たからには誰もが行ってみたいよね。
 駐車場に停めて樫野崎灯台まで歩いている最中にエルトゥールル号事件で亡くなられた方の慰霊碑の前でツアー客と会った。
「何だこれ?」「よく分からんなあ・・・」
みんな変わったものを見るような目で見るだけで誰も分からない様子。まあ、そんなものか・・・。

(トルコ軍艦遭難慰霊碑)

(樫野崎灯台から見た太平洋)

 ここまでで本日の予定の移動距離の3分の1もまだ行っていない。気合いを入れて運転するか。と思いながら、次は温泉で有名な白浜町に向かう。車で行くこと1時間半くらい(だったと思う)、次の目的地である安宅本城に到着。な~んにもない。ただの住宅街。

(安宅本城。土塁とか井戸が残っているらしいのだが・・・結局探さなかった)

 ここでこの安宅地区の観光案内の看板を発見。それを頼りにちょっと安宅地区を散策してみた。まずは安宅氏の菩提寺・宝勝寺に到着。住職の娘さんに一族の墓の場所を聞いて参らせてもらう。
(安宅一族の墓。どれが誰の墓かは住職さんが不在で分かりませんでした)

 その後に八幡山城に行って終わった。行くまでは安宅本城しか知らなかったけど、結構見所が多い地区だった。
 それからいよいよ南紀白浜の名所で熊野水軍の基地だった三段壁に行く。昔、会社の人達と行ってからもう5年かあ・・・。月日が経つのは早い。なんてことを思っているうちに到着。ここは観光名所なのでそこそこ人がいた。
 入り口でお金を払ってエレベーターを使い、地下の洞窟まで行く。

(エレベーターを出るとお出迎えしてくれる人形。手前の鎧で記念撮影可)

 中を見て回るが、う~~ん、変わっていないねえ。観光観光しすぎてちょっと微妙かな。

(洞窟の中)

 洞窟を出た後、疲れていたので温泉にでも寄りたいところだったが、時間がないので更に北上して田辺市を目指す。でもその途中で懐かしの「とれとれ市場」が見えたので、遅い昼飯を食べるために寄る。中は相変わらずのすごい人、そしていつものとれとれソングが流れている。
 ここでとれとれラーメンをいただく。

(とれとれラーメン。海鮮たっぷり)

 再びメイン道路に戻って田辺市にコースを取って車を走らせ紀伊田辺城に到着。昔は立派な城だったようだが、今は公園の下にある水門のみ。いと哀れ・・・。

(田辺城水門)

 さっと撮影し終わると川を挟んだ向かい側にある西方寺に行く。安藤一族の菩提寺である。道が狭くて行けるのか思ったが、無事にたどり着いた。

(西方寺の山門)

 そしてそこからまたすぐ近くの上野山城に向かう。南北朝~戦国にかけて湯川氏が城主だった城だ。ここは本当に何にもないらしいので不安で近所の方に聞いてみたら「そんなものはない」と冷たいお答え・・・TT
 仕方ないのでちょっと周辺を歩くと・・・見つかった。こりゃ近所の人も分からんわ。(上野山城。こりゃ興味ない人だったら、ゴミ収集の案内板くらいにしか思えんわ。まあ案内があるだけましかな。この辺りは小高い丘にある住宅地なので、城があった雰囲気はした)

 これで田辺市も終わって、最後の目的地である御坊市湯川町丸山にある紀伊亀山城に向かった。ここは道が細くて普通車でとても行けるような雰囲気ではなかった。私は非常に肝が悪い(地元の方言で気が弱いこと)ので、やめて帰ろうと思ったが、いろいろあって行ってしまった・・・が、Uターンも出来ず戻れなくなってしまい、JAF呼んで何とか戻れた。まあ、何にしても事故がなくて良かった。JAF待ち時間のせいで城を回れなかったけど、そんなに思い入れがあった訳じゃないからいいや。

(紀伊亀山城を住宅街から望む。後でJAFの人から行った道が間違っていることを聞いた。しかし正しいルートも桜の時期以外は閉まっているとのことだった)

 いろいろあったが無事に史跡巡りを終了し、ホテルに入り、食事を済ますと21時にはまた寝た。今日も良く走ったよ・・・。

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紀伊半島史跡巡り2008(1日目:三瀬館・鵜殿城・新宮城・水野家墓所・熊野本宮大社)

 代休のために思わぬ三連休となった。「普通に過ごすのも面白くないなあ・・・。どこか史跡に行くか」と思い、考えた末、出た結論は和歌山県。熊野速玉大社には一度御礼参りに行かんといけんなあ、と思っていたし。
 平成20年1月26日、朝の5時半に家を出発。高速を走って7時半には最初の目的地に到着。最初は今回唯一の紀伊以外の史跡、三重県多気郡大台町上三瀬にある北畠具教の館跡。あの悲劇の武将・北畠具教が晩年を過ごした土地だ。
 あ~、休日の朝の7時半だけあって静かだなあ・・・。寒さもさほどではないし史跡を巡るにはいい雰囲気だ。ゆっくりと周辺スポットの北畠神社、三瀬館跡、具教の胴塚などを廻る。

(三瀬館跡。近所の犬がワンワン吠えて家の人を起こしてしまった。ごめんなさい)

 そこから隣町の紀北町に向かい、紀伊長島城に到着(ここが道が狭い上に分かりづらかった・・・)。麓の長楽寺に車を停めて登ろうと思ったけど、面倒になってやめた。みんな知っていると思うけど、私はそんなに城好きなわけじゃないし・・・。
 周りを写して帰ろうとしたその時、近所の方と目が合った。「あんた、寺の裏にある梅は見たか。今が見所だぞ」。そう言われちゃうと断るのも悪いので、写しに行った。確かに綺麗だった。教えてもらって良かった。

(梅。後ろでぼやけて見えているのが紀伊長島城の一部)

 そこからまた国道42号を使ってひたすら和歌山県を目指す。こうやって和歌山県に行くのも3度目だが、やっぱり遠い・・・。でも、もう慣れたせいか前より近く感じる。いや、紀勢自動車道が出来たおかげか?
 そんなこんなで尾鷲市に到着。国道42号からは少し外れるけど何となく行ってみたかった曽根五輪塔に行く。曽根弾正夫妻の墓らしいのだが、曽根弾正さんが誰だか良く分からない・・・。ここら辺の豪族のようだが。

(曽根五輪塔。墓地の一角にぽつんとあった)

(墓地から見た賀田湾。ほんと、今日は史跡巡り日和。さほど寒くもないし)

 さてさて、ではまた国道42号に戻って和歌山県を目指しますか。と思い、車を走らせた。熊野市に入るとランチタイムになったので、喫茶店に寄る。事故防止のために疲れもとっておかないといけないし。

(喫茶店の近くにあった獅子巌)

 いろいろあってせっかく喫茶店に入ったものの疲れが取れず、次の目的地に向かう。着いたのが二度目となる鵜殿城。前は天気が悪かったので、是非もう一度天気のいい時に来たいと思っていたのだ。
 城自体は・・・当然だけど何も変わっていないね。

(鵜殿城)

 ここまでくればもう和歌山県は目の前。熊野川を越えて和歌山県新宮市に到着。最初に行くのは今回一番の目的であった熊野速玉大社への御礼参り。正確には願掛けした訳じゃないので御礼参りではないが、感謝の気持ちを伝えるということで・・・。
 さすがにここは観光名所なので人が多いな。感謝の意を表して終了。

(熊野速玉大社)

 しかし新宮市には三度も来たが晴れていたのは初めてじゃあないか。熊野地方と言えば雨の印象しかない(世間では実家の山陰も同じイメージがあるのだろうが)。地元の人に聞いたところ、実際に雨の多い土地らしい。
 予定より時間に余裕があったので、こちらも三度目の新宮城に行く。まあここはささっと撮影して終了。

(新宮城)

 そのあと、新宮駅方面にある徐福公園に行く。よう知らんけど徐福って人は秦の始皇帝の命令で不老不死の薬を求めて東方に旅立った人らしい。そしてここで亡くなったという伝説があるらしいので、お墓があるらしい。

(徐福公園。全国に徐福が亡くなったと言われている場所があるらしい。ここ見ると鳥取県の燕趙園を思い出すな)

 次が場所がよく分からなくて不安だった新宮城主・水野家の墓所。史跡巡りの本で見た住所内に墓らしきマークが地図上にあったのでそちらに向かうがまったく分からず。そこで歩いている男性の方に尋ねた。
「ああ、俺そっち方面に歩いていくから乗せていってくれよ。案内するから。でも観光名所じゃないよ」
 案内してもらえるなら乗ってもらっても問題なし。そこで男性を車に乗せて案内してもらって到着。ああ、国道168号沿いから川越えてすぐのところか・・・。これは分からんわ。
入り口の地図はこちら(行く人いないと思うけど・・・)

(水野家墓所。入り口はこぢんまりとしているが中は広く立派)

 そのまま国道168号を使って北上。目指すは熊野本宮大社。途中で眠くなったので路肩に停めて仮眠した。30分ほど仮眠した後、再び熊野本宮大社に向かう。思っていたほど混んでもなく簡単に駐車場に車を停められた。
 中に入ると・・・思ったより小さいなあ。熊野速玉大社の何倍もなるかと思っていた。決まった形でお参りしてお土産を買うと終了。

(熊野本宮大社。これが本殿の半分。熊野速玉大社とほぼ同じ大きさ)

 これで本日の予定は終了。那智勝浦町にある宿に行き、近くの居酒屋でクジラのみりん干しやマグロの炒め物などを食べ、本を読んだ後、明日に備えて21時には寝た。

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