伯耆江尾城(江美城、蜂塚氏の居城)

●伯耆江尾城
住所:鳥取県日野郡江府町江尾(字・堀切、城ノ上、南谷八幡岸など)

 別名・江美城。戦国時代、尼子氏に従っていた蜂塚氏の居城だった。

(八幡丸に建つ江府町歴史民俗資料館)
江府町歴史民俗資料館

(曲輪Ⅰ)
曲輪Ⅰ

(曲輪Ⅰの先にある裏門跡)
裏門跡

裏門跡

(城の南を流れる南谷川)
南谷川

(西の丸と城ノ上(主郭)との間にある堀)
堀

(西の丸とJR江尾駅方面。真下には江府町歴史民俗資料館も見える)
西の丸

江尾駅

江府町歴史民俗資料館

(城ノ上と櫓台(天守台?))
城ノ上

城ノ上

城ノ上

城ノ上

(城ノ上の東と字・ヲクビ(尾頸)の間にある場所。農作業用の駐車場らしい。ここは字名が堀切で、その名の通り昔は道がなかったそうな。左右が堀になっており、そこを写せば分かりやすかったのだが)
堀切

(曲輪Ⅱ)
曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

(枡形。土塁があった)
枡形

枡形

枡形

(枡形の先にある空堀だか虎口だか)
空堀か虎口

(上ノ段。現在は上之段公園として整備されている)
上ノ段

感想:当城を調べている地元の方に案内していただきました。
 歴史についての詳しいことは『山陰の戦国史跡を歩く 鳥取編』を参考にしてください。

(縄張図)
縄張図



赤碕殿家(地元の豪族の供養塔)

●赤碕殿家
住所:鳥取県東伯郡琴浦町赤碕
駐車場:花見潟墓地の駐車場を利用

 元弘3(1333)年、後醍醐天皇を推戴した名和長年らが籠もった船上山攻めに北条軍の一員として参加し、敗北後に当地に住み地名から赤碕姓を名乗った武将がいた。その後、石碑(供養碑?)が建てられている。文政3(1820)年、赤碕宿番所の役人・佐桐金左衛門が願主となって地元の友三良が中心となって再建された。赤碕氏は地元では「赤碕さん」と親しみを込めて呼ばれているという。

赤碕殿家

赤碕殿家

感想:花見潟墓地を散歩していたらあったので参拝しました。



伯耆小波城(名和長年に攻撃された城)

●伯耆小波城
住所:鳥取県米子市淀江町小波
駐車場:なし
遺構:曲輪、土塁、堀切
標高:16メートル/比高:8メートル

 壺瓶山のそばにあり昔は日本海が当地まで入り込んでおり天然の良港がそばにあった。築城者、築城年代は不明だが『伯耆誌』には元弘年間(1331~34)に大石橋五郎左衛門が居城としていたとの記載がある。元弘3(1333)年、船上山に籠もる名和長年との戦いに敗れ撤退した佐々木清高は当城に撤退し名和軍を迎え撃った。しかし落城し船に乗って隠岐に逃れたという(『参考太平記』)。
 戦国時代は尾高城の支城だったが土砂の沖積により港としての機能を失いつつあったという。

(全景)
全景

(入口)
入口

(曲輪)
曲輪

(土塁?)
土塁?

(北にある伝・船着き場)
伝・船着き場

(近くにある三輪山の清水。駐車場も完備され日によっては汲みに来る方で賑わう)
三輪山の清水

参考文献:鳥取県の地名、鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)、鳥取県の地名、いなば・ほうきの墓碑めぐり、尾高の里 二、

感想:堀切や櫓跡と思われる塚跡があったそうですが面倒で探しませんでした。
 場所も諸説あるみたいです。


写真の提供についてはこちらをクリック