源長寺(矢野和泉守正倫の墓)

住所:東京都足立区千住仲町4-1

 浄土宗。慶長15(1610)年、石出吉胤が菩提寺として創建した。

(山門)

(延命子育て地蔵堂)

(本堂)

(石出吉胤の墓(中央)。千葉氏の一族で足立区に移って開拓や荒川に築堤を行なっている)

(中村一忠の旧臣・矢野和泉守正倫の墓。大坂の陣で主家再興のため戦うが戦死する。正倫の次男が千葉県佐倉の牧野という地に知り合いを頼って落ち延び姓も牧野に変え、やがて後裔が石出氏を頼って当地に住んだ。碑文によると後裔の牧野右泉なる人物が天明4(1784)年に再建したとある)

参考文献:現地の案内板、新修足立区史 上巻、渋柿 (553)

感想:正倫の墓の横に建つ「史跡 矢野和泉守正倫墓」は、昭和38(1963)年に子孫で皆から忘れられていた墓を見つけた牧野寥々ら牧野家一門によるものです。


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廿里古戦場(武田・北条軍激戦の地)

住所:東京都八王子市廿里町

 1569年、武田信玄は北関東に侵攻し武蔵滝山城に迫った。別働隊の小山田信茂も小仏峠を越えて滝山城に迫ったため、滝山城主・北条氏照が家臣の布施出羽守・横地監物・中山家範を出陣させたが敗走させる。余勢を駆って武田軍は滝山城を攻め落城寸前にまで追い込んだが、途中で小田原城に向かったため滝山城は難を免れた。
 この戦いで小仏峠を抑える重要性を感じた氏照が八王子城を築いたという。

(廿里古戦場跡。看板が立つだけで碑はない)

感想:高尾駅から八王子城に向かう途中にありました。廿里は『とどり』と読みます。


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八王子城(御主殿の滝・北条氏照の墓)

住所:東京都八王子市元八王子町3丁目

 北条氏照が1584~1587年頃に築いたという説が有力である。城が未完成のまま小田原征伐が始まり、前田利家・上杉景勝らの軍勢に1日で落とされた。
 現在は国の史跡に指定されている。

(入り口。日本百名城と刻んであるから最近建てられたのであろう)

(トイレの近くに建っていた城趾碑)

(城趾碑近くの南側の階段を降りて御主殿跡を目指す。最初にあったのが大手門跡。道は御主殿跡に続く大手道)

(曳橋。当時は簡単な木橋が架かっており、非常時には壊して敵の侵入を防いだ)

(正面から見た曳橋。当時はこの3分の1ほどの幅しか無かったという。橋の向こうに見えるのが御主殿跡)

(石垣)

(虎口)

(冠木門。当時の復元ではない)

(御主殿跡。南北40メートル・東西90メートルの広さで石垣が土塁に囲まれている。生活用品や武具は発見されたが、瓦が一枚も見つからなかったため板葺きの建物があったと考えられている)

(御主殿の滝。落城の際に城兵や婦女子が自刃して身を投げたため、三日三晩赤く染まったとの伝承がある)

 御主殿跡から本丸には直接行けないので、一回、城趾碑やトイレのある所まで戻ってそこから改めて登山。

(小田原征伐の際に近藤出羽守が守備したあしだ曲輪)

(あしだ曲輪跡に建っている福善寺の観音堂)

(小田原征伐の際に金子家重が守備した金子丸。今は本丸まで別の道もあるが当時はここを通る道しか無かった。この南側に遺構があったようだが見逃してしまった)

(柵門台)

(中の曲輪に建つ八王子神社。913年、修行中の僧の前に牛頭天王と八王子権現が現れたため、麓に八王子権現を祀った蓮華院を創建している。この伝承から氏照は城内に八王子権現を祀る当社を建てた。八王子という地名はこの権現の伝承から来ている)

(小田原征伐の際に中山家範が守備した松木曲輪。家範は前田利家の軍勢相手に奮戦したが防ぎ切れず戦死した。その勇戦を聞いた徳川家康が遺児を召し抱えている)

(小田原征伐の際に横地吉信が守備した本丸跡。当時、城主の氏照は小田原城にいて不在だった)

(北条氏照の墓(中央)。1689年、氏照の百回忌に旧臣・中山家範の孫で水戸藩の付家老だった信治が建てた。右は家範の墓、左は信治の墓)

感想:土日祝のみ高尾駅から入り口までバスが出ています。平日でもバスで八王子城跡入口の信号までは行けますが、そこから結構歩きます。まあ、そこからの登山に比べたら大したことはないですが…。
 そういえば中世の関東の城で石垣があるのを見たのって、ここが初めてかも。


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