獄門畷(堀川城将士最期の地)

●獄門畷
住所:静岡県浜松市北区細江町気賀
駐車場:なし

 永禄12(1569)年3月、徳川家康の遠江侵攻に抵抗した一揆勢などが堀川城に籠もるが1日で落城し、千人が戦死し捕らえられた七百人も当地で9月に処刑され近くの堤に首を晒された。

(堀川城将士最期之地の碑。捕らえられて処刑された七百人と、当地を治めていたが家康が侵攻すると逃亡し慶長11(1606)年に地元を支配する石川半三郎に処刑された新田喜斎を祀っている)
獄門畷

参考文献:静岡県の地名、細江町史 史料編7、細江町史 通史編 中、ハローナビしずおか 静岡県観光情報

感想:近くの堤というのは獄門畷と細江中学校の間にある川のことでしょうか。
 『菅沼家譜』では七百人は許され子孫は気賀地区に住んだと記しています。新田喜斎は同じ気賀にある金地院で出家し82歳だったそうですが訴えがあって捕まったそうです。喜斎は堀川城の戦いの前に逃げたのに高齢で処刑されるほどのことなのか疑問が残ります。余談ですが、喜斎が隠れ住んでいた気賀の呉石地区には喜斎の碑(供養塔?)があるそうです。


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遠江堀川城(徳川家康が撫で斬りを行った城)

●遠江堀川城
住所:静岡県浜松市北区細江町気賀
駐車場:なし
遺構:不明
標高:2メートル/比高:0メートル

 浜松市指定史跡。当時は小高い丘で周囲が湿地帯になっており南には浜名湖が迫り北には都田川の水を引き込んで、満潮時には船でないと渡れないようにしていたという。
 永禄10(1567)年頃、徳川家康の脅威に対抗するため今川氏に味方する土豪の竹田高正・尾藤主膳・山村修理などによって築かれた。永禄11(1568)年、家康が遠江に侵攻してくると一旦は落城して壊されたが、翌年の永禄12(1569)年に地元の一揆勢らが修築し立て籠もって抵抗する。だが家康の家臣である松平信一や榊原康政らの攻撃を受け1日で落城し、千人が戦死し捕らえられた七百人も獄門畷で処刑された。

(全景。周囲は埋め立てられ当時の面影はない。しかも「伝」のため、この場所が確定ではない)
全景

(中は小さな公園のようになっている)
公園

(首塚。碑は太平洋戦争後に建てられた。細江町中川に同じく首を埋め弔った円頓寺という寺があったが廃寺になっている。そこにあった首塚(?)がどうなったかは調べていない)
首塚

(昭和47(1972)年に建てられた城址碑)
城址碑

参考文献:静岡県の地名、細江町史 史料編7、細江町史 通史編 中、ハローナビしずおか 静岡県観光情報

感想:永禄12年の戦いでは大久保一族の大久保忠栄が銃弾により戦死し榊原康政が二箇所に傷を負うほどの激戦だったそうです。
 この手の水を利用した城は埋め立てられて遺構が残りづらいです。小高い丘でもあればいいのでしょうが、圃場や住宅整備の邪魔になるので削平されてしまうのは仕方のないところです。


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千人塚(高天神城の戦死者を葬る)

●千人塚
住所:静岡県掛川市下土方
駐車場:なし

 天正9(1581)年、高天神城が落ちた際の戦死者を葬った。

千人塚

千人塚

感想:お盆に行ったので、とにかく暑かったという記憶しかないです。


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