南陽山慈恩寺(伝・足利直冬終焉の地)

●南陽山慈恩寺
住所:島根県江津市都治町1174
駐車場:境内にあり

 臨済宗東福寺派。正嘉2(1258)年、東福寺の悦山が畑田村(現在の江津市松川町畑田)の山腹に閉居し、周囲の住民が帰依して創建されたと伝わる。
 足利尊氏の庶子で反幕府側として戦い消息不明となった足利直冬は当寺で余生を送り、応永7(1400)年3月7日に畑田村の高畑城で亡くなったという。法名は慈恩寺殿玉渓道昭居士で当寺に葬られた。本尊は直冬が兜に付けていたという観音像で、33年に一度開帳される。
 盛時は末寺が20以上あり伽藍も偉容を誇ったが、文亀3(1503)年に火災のため焼失し現在地に移された。明治5(1872)年、寺子屋教育が始まり、それがやがて都治小学校となる(現在は江津東小学校に統合されている)。

(全景)
全景

(本堂)
本堂

(転輪蔵。経蔵中に設けて、経典を収納するための回転式の書棚のこと)
転輪蔵

(鐘楼)
鐘楼

参考文献:江津市誌 上巻、江津市誌 下巻、石見社寺案内、島根県の地名、現地の碑

感想:足利直冬の亡骸は高畑城の東北の慈恩寺跡に葬られているようですが正確な場所は分かりません。



石見矢川城(矢ヶ尾城、永安氏の支城)

●石見矢川城(矢ヶ尾城、矢が尾城)
住所:島根県浜田市弥栄町大坪
駐車場:なし
遺構:曲輪、土塁、堀切、竪堀、横堀
標高:431メートル/比高:87メートル

 中世、当地は永安別符(石見矢懸城を参照)の一部で永安氏の支配地域だった。戦国時代、永安氏は大内義隆を自害に追いやった陶晴賢に益田氏などと共に味方がしたたため、天文23(1554)年(弘治元(1555)年、弘治3(1557)年とも)に吉川元春らの軍勢に攻められ落城している。
 北に三隅川、南に小角川が流れる天然の要害で永安氏が居城の矢懸城から移って緊急時に立て籠もったという説もある。しかし木束郷との境目にあるため、境目を守る目的で築かれたと思われる。吉川氏の支配後は家臣の桑田氏が城番となり、その際改修され城の中心が東側から西側に移ったと推測されている。

(下の縄張図にある東端の堀切。笹藪をかき分けて何とか登り続け到達した)
堀切

(東端の堀切の西にある曲輪?)
曲輪

(東側の中心的な曲輪③に出た)
曲輪③

(曲輪③の南にある帯曲輪)
帯曲輪

(曲輪④)
曲輪④

(曲輪⑤。木が繁っているので、この辺りから笹藪が少なくなり遺構がはっきりと視認できるようになってきた)
曲輪⑤

曲輪⑤

(曲輪⑥とその周辺。竪堀も写したが、やはり分からない)
曲輪⑥

曲輪⑥

曲輪⑥

曲輪⑥

曲輪⑥

(曲輪②。また笹藪が・・・)
曲輪②

曲輪②

(曲輪②の先にある堀切群。この城の最大の見所だった)
堀切群

堀切群

堀切群

堀切群

堀切群

堀切群

堀切群

堀切群

(曲輪①に来たら、笹藪が酷い。帰りの体力と熊の心配があったので引き返した)
曲輪①

曲輪①

(三隅川と矢川城。この時、ちょうど15時で町内放送が流れ始め「熊が出たのか!?」と思ったら「健康のためにラジオ体操をしましょう」という内容だった・・・)
三隅川と矢川城

参考文献:石見の山城、島根県の地名、島根県中近世城館跡分布調査報告書 石見の城館跡、矢懸城の案内板

感想:写真はありませんが城域に行くまでの笹藪には本当に参りました。何度も引き返そうと思ったくらいです。
 ここにも白南天の木の下に隠し財産があるという伝承があり近世に掘られたそうです。矢懸城に通じるルートがあるらしく二つの城は連携していたようです。

(縄張図)
縄張図



石見矢懸城(永安城、永安氏の居城)

●石見矢懸城(永安城)
住所:島根県浜田市弥栄町長安本郷
駐車場:あり
遺構:曲輪、畦状竪堀群、堀切
標高:472メートル/比高:95メートル

 永安別符(弥栄地区(旧弥栄村)の大部分を占めていた別符。別符とは平安時代から鎌倉時代にかけて成立した土地制度で、本来の荘園に付随していた区域が本荘とは別の国司免符などを得て独立的な性格を帯びること。また、その土地や地域。九州地方に多い)の支配の拠点と考えられている。仁治3(1242)年、三隅兼信の次男・兼祐が当地の代官となり永安に改姓した。その頃に築かれたというが定かではない。
 戦国時代、永安氏は大内義隆を自害に追いやった陶晴賢に益田氏などと共に味方がしたたため、天文23(1554)年(弘治元(1555)年、弘治3(1557)年とも)に吉川元春らの軍勢に攻められ落城した。当主の大和守(式部少輔とも)は益田氏の居城・石見七尾城に落ち延びるが、益田氏が毛利氏に降伏すると自害したという。

(全景)
全景

(下の縄張図の曲輪群Ⅰ)
曲輪群Ⅰ

(曲輪群Ⅰの西にある畦状竪堀群。全く分からんかった)
畦状竪堀群

(標高480と記載のある場所。ここが主郭だろう。愛宕神社が建てられている)
主郭

主郭

主郭

(曲輪Ⅱ)
曲輪Ⅱ

(曲輪Ⅱの先にある堀切。写真では分からないが、かなりの規模。『石見の山城』には大堀切と記載してあった)
堀切

堀切

堀切

(堀切の先に続く尾根)
尾根

(曲輪Ⅲ)
曲輪Ⅲ

曲輪Ⅲ

(曲輪Ⅳ)
曲輪Ⅳ

参考文献:石見の山城、島根県の地名、現地の案内板、島根県中近世城館跡分布調査報告書 石見の城館跡、西石見の豪族と山城

感想:この辺りで食事をしようとしましたが食堂どころかコンビニもなく弥栄地区で唯一のスーパー・Aコープで食糧を調達しました。山陰で問題になっている買い物難民の気持ちが理解できました。
 城のルートマップで南側をうろうろしてますが入口が分からなかっただけです。地図に入口を載せていますので、そこから行けば整備された愛宕神社を参拝するための参道を登ることができます。

(縄張図)
縄張図