美作岩屋城陣城群(宇喜多氏が築いた岩屋城包囲網。荒神ノ上砦、井ノ奥砦、与右衛門ノ上砦、井ノ奥砦、とちの木砦、的場ノ峠砦、遣手場砦、梅ヶ峠砦、石蕨砦、柿ノ木ノ上砦、往還ノ上砦、楽万ノ上砦)

●美作岩屋城陣城群
住所:岡山県津山市中北上
駐車場:あり
遺構:曲輪、土塁、堀切、堀
標高:520メートル/比高:347メートル

 天正10(1582)年、毛利氏と宇喜多氏が和睦し岩屋城は宇喜多氏の領地と決まるが、城主の中村頼宗はこれに従わなかった。これに対して宇喜多氏は大規模な包囲網を敷く。その際に築かれたのが岩屋城陣城群だった。天正12(1584)年、毛利氏の庇護下にあった足利義昭の調停によって頼宗は開城している。

(朝の8時に出発。写真は岩屋城から見た周辺の山。手前にある山々を尾根伝いに進むことになる)
周辺の山

周辺の山

(最初に出てくる荒神ノ上砦。浦上与九郎が守備したという。大まかな場所は一番下にある岩屋城跡と陣城群を参照)
荒神ノ上砦

荒神ノ上砦

(陣城群の名物・長大な土塁)
長く続く土塁

(縄張図の南にある曲輪、だと思う。思うというのは時間が気になって縄張図をあまり見ずに写真だけ撮って次に急いだから、全ての砦でどの位置の遺構を撮ったのか分かっていない。遺構の位置を確認しながら進んでいたら私の体力だと陽が暮れる)
南にある曲輪

南にある曲輪

(更に続く土塁)
土塁

土塁

(縄張図の北にある曲輪、だと思う)
北にある曲輪

北にある曲輪

北にある曲輪

(荒神ノ上砦の縄張図。クリックすると別タブが開く)
荒神ノ上砦の縄張図

(整備されているのはここまで。これから先は倒木などのある道を歩くことになる。と言ってもところどころは整備されている。写真は杉原木工が守備したと伝わる与右衛門ノ上砦)
与右衛門ノ上砦

与右衛門ノ上砦

与右衛門ノ上砦

与右衛門ノ上砦

(井ノ奥砦。小瀨修理太夫が守備したという。この時点で9時なので順調だと思う)
井ノ奥砦

井ノ奥砦

井ノ奥砦

井ノ奥砦

井ノ奥砦

井ノ奥砦

井ノ奥砦

(与右衛門ノ上砦(右下)と井ノ奥砦(中央)の縄張図。クリックすると別タブが開く)
与右衛門ノ上砦(右下)と井ノ奥砦(中央)の縄張図

(とちの木砦。川端右近が守備したという。この時点で9時半)
とちの木砦

とちの木砦

とちの木砦

とちの木砦

とちの木砦

とちの木砦

とちの木砦

とちの木砦

(とちの木砦の縄張図。これは主郭部だけで南北にも遺構がある。クリックすると別タブが開く)
とちの木砦の縄張図

(的場ノ峠砦。長船備中守が守備したという。この時点で10時15分)
的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

(的場ノ峠砦の縄張図)
的場ノ峠砦

(遣手場(はってば)砦。杉原下野守が守備したという。この時点で10時30分)
的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

的場ノ峠砦

(遣手場砦の縄張図。クリックすると別タブが開く)
遣手場砦の縄張図

遣手場砦の縄張図

(もっとも北側の平削地。特に名前はない。この折りかえし地点から足取りが更に重くなった)
北側の平削地

(梅ヶ峠砦。江原兵庫助が守備したという。この時点で11時30分。遣手場で小休憩をしたため遅くなったような記憶がある。この辺りは鮮明に分かる曲輪や土塁が特に多かった。ここから南下すれば岩屋城に出られるので、限界だった場合はそうした方がいい。私は行っていないのでコースは各自で調べて)
梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

梅ヶ峠砦

(コースの途中にある岩屋城へ抜ける道)
岩屋城へ抜ける道

(梅ヶ峠砦周辺の縄張図。クリックすると別タブが開く)
梅ヶ峠砦周辺の縄張図

(梅ヶ峠砦と石蕨砦の間にある遺構。土塁と小さな曲輪があった)
間にある遺構

間にある遺構

間にある遺構

間にある遺構

間にある遺構

(石蕨砦。戸川肥後守が守備したという。この時点で12時30分。動けなくなって30分くらい昼休憩をした)
石蕨砦

石蕨砦

石蕨砦

石蕨砦

石蕨砦

石蕨砦

石蕨砦

石蕨砦

石蕨砦

石蕨砦

石蕨砦

(梅ヶ峠砦を抜けた先(北東)~石蕨砦(南西)までの縄張図。クリックすると別タブが開く)
梅ヶ峠砦を抜けた先(北東)~石蕨砦(南西)までの縄張図

(石蕨砦と柿ノ木ノ上砦の間の遺構。もう足が限界で進むスピードが極端に遅くなった)
間の遺構

間の遺構

間の遺構

間の遺構

間の遺構

間の遺構

間の遺構

間の遺構

(柿ノ木ノ上砦。長船又兵衛が守備したという。この時点で13時30分。もうフラフラで一歩歩くのも辛いくらい。遺構は藪になっており、ほとんど分からなかった。その先の名前のない砦は藪がなく見学が楽だった)
柿ノ木ノ上砦

柿ノ木ノ上砦

柿ノ木ノ上砦

柿ノ木ノ上砦

柿ノ木ノ上砦

柿ノ木ノ上砦

柿ノ木ノ上砦

(石蕨砦を抜けた先(北)~柿ノ木ノ上砦(南)までの縄張図。クリックすると別タブが開く)
石蕨砦を抜けた先(北)~柿ノ木ノ上砦(南)までの縄張図

(往還ノ上砦。斉藤五郎右衛門が守備したという。この時点で14時45分。ここに着くまで迷って谷に降りてしまったため大幅に時間を消費した。ここまで来ると体力ではなく気合いで進んだ)
往還ノ上砦

往還ノ上砦

往還ノ上砦

往還ノ上砦

往還ノ上砦

往還ノ上砦

往還ノ上砦

往還ノ上砦

往還ノ上砦

 ここで一旦、国道181号線に降りた。かなりの急斜面な上に膝が馬鹿になっていたので滑落するかと思った。そして東から楽万ノ上砦に入る。

(楽万ノ上砦の東の土塁。岡平内が守備したという。この時点で15時30分。ここまで来ると時間を気にする必要はないけど)
東の土塁

東の土塁

(楽万ノ上砦の東の曲輪)
東の曲輪

東の曲輪

東の曲輪

東の曲輪

(楽万ノ上砦の中央の土塁)
中央の土塁

(楽万ノ上砦の西の曲輪)
楽万ノ上砦の西の曲輪

楽万ノ上砦の西の曲輪

楽万ノ上砦の西の曲輪

楽万ノ上砦の西の曲輪

楽万ノ上砦の西の曲輪

(往還ノ上砦(西)と楽万ノ上砦(東)の縄張図。クリックすると別タブが開く)
往還ノ上砦(西)と楽万ノ上砦(東)の縄張図

(妙福寺ノ上砦は流石に無理だと思って駐車場に戻った。約8時間かかった。平均的な時間らしい)
駐車場

(そしてホテルで休憩した後、居酒屋に行った。飲まないとやっていられなかった。そしてホテルに戻って気絶するように寝た)
居酒屋

居酒屋

居酒屋

居酒屋

参考文献:岡山県中世城館跡総合調査報告書 第3冊 美作編、岩屋城を守る会

感想:下のルートマップを見てもらえば分かりますが、約13キロで累積標高813mも歩きました。途中で足はつるし上がらなくなるしで入っている山岳保険を使おうかと思うほど過酷でした。駐車場に着いた後も靴を履き替えようとするだけでつる始末。そんな状態だったため妙福寺ノ上砦だけは行っていません。
 こんな過酷な城巡りのコースでも天気が良かったためか数人と会いました。最初、熊かと思いました。

(岩屋城跡と陣城群。クリックすると別タブが開きます)
岩屋城跡と陣城群


写真の提供についてはこちらをクリック

掲載の縄張図について


美作 岩屋城(山名氏、赤松氏、浦上氏、尼子氏、毛利氏、宇喜多氏の争奪戦の舞台になった城)

●美作 岩屋城
住所:岡山県津山市中北上
駐車場:あり
遺構:曲輪、堀切、土塁、畦状竪堀群
標高:480メートル/比高:259メートル

 岡山県指定史跡。嘉吉元(1441)年、山名教清が美作守護に任ぜられた際に築いたという。応仁の乱で赤松政則が攻め落とし、家臣の小瀬氏などが城の守備についた。永正17(1520)年、浦上村宗が赤松氏に反旗を翻し攻め落とす。天文13(1544)年、美作に侵攻した尼子国久が岩屋城を落とし芦田氏が入った。しかし芦田氏も天正2(1574)年に宇喜多直家によって滅ぼされ家臣の浜口氏が入る。
 毛利氏と宇喜多氏の戦争の最中の天正9(1581)年、毛利に味方する葛下城主・中村頼宗らが奇襲によって落城させ頼宗が城主となった。天正10(1582)年に両氏が和睦し当地は宇喜多氏の領地と決まるが、頼宗はこれに従わず宇喜多氏は大規模な包囲網を敷いた(美作岩屋城陣城群)。天正12(1584)年、毛利氏の庇護下にあった足利義昭の調停によって頼宗は開城。その後、宇喜多氏の家臣が城主となるが、天正18(1590)年に山火事で廃城になった。

(入口。この側に第一駐車場がある)
入口

入口

(慈悲門寺の下砦跡。砦の中でももっとも南東にある。『作陽誌』によると慈悲門寺は圓珍の開基で天台宗だったが戦乱に巻き込まれ岩屋城の廃城の後、廃寺になったとある。本尊は山名教清が寄進したと伝わり現在は同地区の小林寺に移され秘仏となっている。慈悲門寺の砦群は登山道沿いにあり、曲輪などの位置については下の縄張図を参照)
下砦跡

(北にある曲輪。溝や礎石のようなものがあり寺の中心だったと思われる。奥にある巨石群が自然か人工かは不明)
慈悲門寺

慈悲門寺

慈悲門寺

慈悲門寺

慈悲門寺

(寺の中心だったと思われる場所から南西に行くとある西の砦跡)
西の砦跡

西の砦跡

西の砦跡

(慈悲門寺の縄張図。クリックすると別タブが開きます)
慈悲門寺の縄張図

(登山道を少し逸れて山王権現社へ。滋賀県大津市に建つ日吉大社の山王権現を勧請して建てられ、慈悲門寺の鎮守となっていたが明治44(1911)年に津山市坪井下の鶴坂神社に合祀された。ここが岩屋の地名の由来らしい。鳥取県三朝町の投入堂と雰囲気が似ている。この穴は手彫りだそうな)
山王権現社

山王権現社

山王権現社

山王権現社

(ちなみにこれが三朝町の投入堂。岩屋城から北に40キロくらいの位置にあるため、山王権現社は影響を受けていると思われる)
三朝町の投入堂

(もとの登山道に戻って登ると大手門跡とその先にある曲輪群に出た。下の中央部の縄張図だと東の中央付近)
大手門跡

大手門跡

大手門跡

(大手門跡の北にある水門跡)
水門跡

(水神宮、龍神池、井戸跡。龍神池は山名教清が山名氏の拠点の一つである伯耆の赤松池を模して作り、同じく赤松池にある龍神を勧請して水神宮を建てたという)
水神宮

水神宮

龍神池

井戸跡

(ちなみにこれが鳥取県大山町赤松にある赤松池)
赤松池

(縄張図のⅣの北側にある緩やかな坂の曲輪群)
緩やかな坂の曲輪群

緩やかな坂の曲輪群

(井戸跡。落ちないようにカバーがしてあった)
井戸跡

(その更に北を進むと南堀切跡がある。城域の割と北側にあるのになぜ南堀切なのだろうか)
南堀切跡

南堀切跡

(戻って西に登ると曲輪に囲まれた場所に出る。ここに来た敵は一網打尽だな)
曲輪に囲まれた場所

(縄張図Ⅳの曲輪。通称・馬場跡。かなり広い曲輪で多数の兵が駐屯していたと考えられている)
馬場跡

馬場跡

(縄張図Ⅳの南にある曲輪)
南にある曲輪

南にある曲輪

南にある曲輪

(南から更にY字の箇所を南西に進むと石塁?や堀切が出てきた)
南西

南西

南西

(ここは小分城というらしい。岩屋城と別の扱いなのか、名前の通り城の中に更に小分けして城があるのか不明)
小分城

小分城

(戻ってY字の南東に進む。なかなかの切岸があって降りるのに一苦労した。堀切や土塁などがあり、ここは石橋上の砦というらしい)
石橋上の砦

石橋上の砦

石橋上の砦

石橋上の砦

石橋上の砦

石橋上の砦

(戻って主郭の曲輪Ⅰとその周辺の曲輪群に向かう)
曲輪Ⅰ

曲輪Ⅰ

曲輪Ⅰ

曲輪Ⅰ

曲輪Ⅰ

(曲輪Ⅰにある落とし雪隠。天正9(1581)年、毛利に味方する葛下城主・中村頼宗の家臣が奇襲の際に登ってきて火を付けた。それが落城のきっかけになったという。のぞき込むと危険なのでロープが張ってある)
落とし雪隠

(曲輪Ⅱ(通称・二の丸)に行く。途中、堀切があった)
曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

(曲輪Ⅱの北側にある大堀切)
大堀切

大堀切

大堀切

(北東にある畦状竪堀群。通称・てのくぼり。「手で土をのく(西日本でどけるやどかすの意味)」から、手のく堀と呼ばれているのだろうか)
てのくぼり

てのくぼり

てのくぼり

てのくぼり

参考文献:岡山県中世城館跡総合調査報告書 第3冊 美作編、岡山県の地名、現地の案内板、作陽誌 西作誌中巻 西作誌. 上,中巻 新訂

感想:入口までの道が若干狭いですが普通車でも十分通れます。ここは人気の山城らしく自分以外も何人かの方が来ていました。

(中央部の縄張図。クリックすると別タブが開きます)
中央部の縄張図


写真の提供についてはこちらをクリック

掲載の縄張図について


備中 茶臼山城(矢掛町。毛利(穂井田)元清の居城)

●備中 茶臼山城(矢掛町)
住所:岡山県小田郡矢掛町東三成・矢掛
駐車場:あり
遺構:曲輪、堀切、土塁、井戸跡
標高:111メートル/比高:47メートル

 天正11(1583)年、猿掛城主・毛利(穂井田)元清は息子の秀元に城を譲り自身は茶臼山城を築城して移り住んだ。天正15(1587)年、九州攻めに向かう豊臣秀吉が立ち寄った際
「山城はことごとく壊し城は平地に造るように」
 と命じたため地面の区画だけで終わったという。あるいは前年の天正13(1585)年、毛利輝元の命で元清は安芸の桜尾城に移ったという。いずれにしても城は完成しており婿の江木半四郞の居城を拡張したとも伝わり、元清が去った後は城代が置かれた。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで毛利氏が防長に押し込められると廃城となる。
 現在は茶臼山文化の丘として整備されている。

(駐車場になっている曲輪1。場所は下の縄張図を参照。奥に見えるのがトイレで右は土塁らしい)
曲輪1

(曲輪1と2の間の段差。切岸か?)
曲輪1と2の間

(曲輪2。鎮守丸と呼ばれ最上位経王大菩薩を祀る社殿がある。法華経の守護神で最上稲荷のことらしいので稲荷の分社だろう。鉄塔もあった)
曲輪2

曲輪2

曲輪2

曲輪2

(曲輪3と書いたが1から続く鎮守丸の帯曲輪らしい)
曲輪3

(曲輪4。この辺りが二の丸らしい。現在は展望台となっている)
曲輪4

(曲輪4の南側。荒れていた。以前は畑だったのだろうか?)
曲輪4の南側

曲輪4の南側

(曲輪5、6、7。7には井戸跡があった。爺ヶ段と呼ばれ江木半四郞が住んでいた場所だと伝わっている)
曲輪5、6、7

曲輪5、6、7

曲輪5、6、7

曲輪5、6、7

(曲輪8)
曲輪8

(昆虫の森になっている南に延びる曲輪群9で通称は三の丸。確かに昆虫がいそうな雰囲気である。石垣は後世のものだろうか)
曲輪群9

曲輪群9

曲輪群9

曲輪群9

(駐車場(曲輪1)に戻って西側を望む。下に流れているのは小田川)
西側を望む

(主郭の曲輪群10。ここにも鉄塔が建っている)
曲輪群10

曲輪群10

曲輪群10

曲輪群10

(北にある堀切A。道路から入った方が楽だが自分は曲輪群10から行った)
堀切A

堀切A

堀切A

(最北端の堀切B。矢掛神社に続く道になっている)
堀切B

堀切B

参考文献:岡山県中世城館跡総合調査報告書 第2冊 備中編、小田郡誌 上巻 増訂追補

感想:車で行くと道が狭いため運天が苦手な方は注意が必要です。
 ご覧の通り、公園として整備されているため非常に見学しやすいのですが山城好きの方には物足りないかもしれません。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


写真の提供についてはこちらをクリック

掲載の縄張図について