中国・九州史跡巡り2010(10日目前半:大友義鑑の墓・佐久間盛政公慰霊碑・岡城)

 2010年8月20日(金)、本日は佐伯市から熊本市まで中九州を横断。

105.大友義鑑の墓・・・臼杵市野津町宮原。1550年、二階崩れの変で亡くなった大友義鑑の遺骸は、自らが建立した到明寺に葬られた。のちに寺は廃寺となり墓だけが残ったと思われる。
感想:民家の中にあって分かりづらかった。周辺に駐車場もないので車で行く方は気をつけた方が良い。

106.英雄寺・・・竹田市会々2033。岡藩初代藩主・中川秀成(賤ヶ岳の戦いで戦死した中川清秀の次男)の妻・虎姫が、父・佐久間盛政を供養するため1644年に建立した。佐久間盛政の慰霊碑及び位牌がある。
感想:慰霊碑は寺からも行けるが、車があるなら市役所近くのマンションまで廻って行った方が楽、と住職さんに教えていただきその通りにしたら車から降りてすぐに着いた。

(位牌が安置されている本堂)

(佐久間盛政公慰霊碑)

107.碧雲寺(岡藩主おたまや公園)・・・竹田市大字会々。英雄寺の東隣。中川家の菩提寺。1612年、二代藩主中川久盛によって建立された。歴代藩主の墓がある。現在、墓地は「おたまや公園」として整備されている。

(中川秀成の墓)

(虎姫の墓)

(碧雲寺。家紋の中川柏がしっかり入っている)

108.岡城・・・竹田市竹田岡。「荒城の月」の詩の舞台として良く知られている。1185年、緒方惟栄が源義経を迎えるために築いたのが始まりといわれる。南北朝時代に志賀氏によって拡張工事が行なわれる。1586年、島津軍が豊後に侵入した際、37000の島津軍の攻撃に対して僅か1000人で守りきった。1594年、中川氏が城主となり明治維新まで続いている。国の指定史跡で本丸・二の丸・三の丸・西の丸跡などが残っている。
感想:山城なのに有料なのには少し驚いた。入場券を券売している窓口が駐車場内にあるため気がつかずそのまま入ろうとする人を見かけた。あれは分かりづらいね。

(大手門跡)

(石垣)

(三の丸跡)

(滝廉太郎像)

109.中川神社・・・竹田市拝田原。中川清秀、秀政、秀成、秀清を祀っている。

(鳥居)

(本殿)


 ここで長かった大分県での史跡巡りは終わり。続いて熊本県に移動する。

写真の提供についてはこちらをクリック


中国・九州史跡巡り2010(9日目後半:大友宗麟の墓・佐伯城・長宗我部元親神社)

98.月桂寺・・・臼杵市大字臼杵本丁。臼杵城主・稲葉氏の菩提寺。非公開。
感想:この寺が月桂寺なのか自信がありません・・・。

99.臼杵城・・・臼杵市臼杵丹生島91。1562年、大友宗麟が島だった当地に築城。宗麟は本拠地を府内から臼杵に移して北九州を支配した。1586年、島津軍が豊後に攻め入った際、国崩と呼ばれる大砲で撃退した話は有名。大友氏改易後は何度か城主が変わるが最終的に稲葉氏が城主となっている。現在は埋め立てられ臼杵公園となっており、宗麟が戦った当時の面影はない。
(天守櫓跡)

(卯寅口門脇櫓)

(国崩のモニュメント。奥のプレートは例によって大友宗麟公像)


100.宗麟公園・・・津久見市津久見字ミウチ4189-1。1587年、津久見の居館で亡くなった大友宗麟はキリスト教式の墓に葬られたらが、同年にバテレン追放令が出たため、仏式に建て直された。1977年にはキリスト教式の墓も新たに建てられている。
感想:駐車場完備で公園の整備も行き届いている。本当に大分の方からは慕われているんだな。

(仏式の墓。荒廃したのを見かねた人物が1800年頃に建て直したもの)

(キリスト教式の墓)

(大友宗麟の像)

(大友宗麟の胸像。かなりお疲れな感じ)


101.佐伯城三の丸櫓・・・佐伯市大手町。佐伯城の藩主の居城が三の丸に移った際、藩の正門として創建された。
感想:佐伯城にも行こうと思ったが、体力が残っていなかったので諦めた。

102.養賢寺・・・佐伯市城下東町9-21。佐伯城主・毛利家の菩提寺。
感想:「寺は非公開だが、お墓の参拝は可能」とのことだったので、そっと参拝して帰った。そのまま行っても問題ないと思うが、事前に連絡をしておいた方が無難。
(山門)

103.大日寺・・・佐伯市船頭町2-37。1608年に毛利氏の祈願所として創建された。初代住職・秀乗は長宗我部元親の息子だったと伝わっている(秀乗は妻帯していないので子孫は残っていない)。以下に秀乗の略歴を記しておく。
 秀乗。俗名は長宗我部秀親。元親の三男で塩飽諸島(香川県の丸亀市や三豊市の北に浮かぶ島々)の領主で朝鮮出兵ではのちに佐伯藩の藩祖となる毛利高政に従って朝鮮出兵で奮戦した。関ヶ原の戦いでは東西どちらにもつかず、戦後に世を捨てて高野山に行き僧となる。やがて佐伯に移り住むと、そのことを知った高政に招かれ大日寺の住職となる。
感想:長宗我部秀親については長宗我部ファンならいろいろと突っ込みたい気持ちはあるでしょうが、それは抑えてください。所縁のない佐伯市で長宗我部氏の名前が出るということは、本当に長宗我部一族とどこかで関係があったのかもしれません。
(本堂と不動堂)


104.長宗我部元親神社・・・佐伯市鶴見梶寄浦。下梶寄海水浴場のすぐそばにある。この地区に土佐路姓が多いことから土佐から渡ってきた人達が建てた神社ではないかといわれている。
感想:どうも関ヶ原の戦い後、土佐を追われた長宗我部旧臣がここに移り住んだらしい。宿毛からだと船で20数キロしか離れていないので、ありそうな話である。
 ここは鶴御崎の端でめっちゃ遠かった・・・。途中から携帯の電波が入らなくなるし・・・。

(鳥居)

(祠。非常に分かりやすい名前である)

(神社近くから北西を望む。晴れた日には日振島も見えるらしい)


 鶴御崎には長宗我部の墓と呼ばれるものがあるが、間違いらしいので行かなかった。ということで本日はこれにて終了。
本日の感想:島津軍の豊後乱入のことを大分では「豊薩の陣」と呼んでいるらしく、あちこちでその呼称を目にした。今日もあちこちでいろんな方にお世話になった。ありがとうございました!!

写真の提供についてはこちらをクリック


中国・九州史跡巡り2010(9日目前半:戸次川古戦場)

 2010年8月19日(木)、本日は長宗我部デー。まずは戸次川を案内してくださる方と合流。

84.成大寺・・・大分市上戸次利光。創建時期は不明。元々は鶴賀城内にあった。1236年、戸次氏の祈願所となる。1586年、島津軍の鶴賀城攻めで焼失。1648年、現在地に再興される。現在は寺籍を無くし地区が管理をしている。
感想:ということでここは正式には寺ではない。
 ここで地元の方に長宗我部氏・十河氏・仙石氏の評判、四国連合軍と島津軍の戦術などについてゆっくりと説明を受けた。

(鶴賀城主・利光宗魚と成大寺住職の墓)

(信親公御供之衆の碑。雪蹊寺にあるリストを刻んだものらしい)

85.千人塚・・・大分市上戸次利光(だと思う)。鶴賀城の攻防戦で戦死した死体を集めて埋葬したものである。個人宅にある。
感想:昔は鶴賀城の攻防戦や戸次川の戦いで戦死した兵士のための塚らしきものが地区のあちこちにあったらしいのだが、区画整理でほとんど撤去されたらしい。

86.勝光寺・・・大分市大字竹中中竹中3378。1196年、大友能直が源頼朝の菩提を弔うために建てた寺。一時、荒廃したが肥後の細川氏の庇護を受け復興している。
感想:なぜここが細川氏の庇護を受けたかというと、参勤交代の宿を確保するため幕府から戸次地区の一部が与えられていたからである。
 南こうせつさんのご実家で若い頃はずっとここで練習をされていたらしい。そして住職さんはこうせつさんのお兄さんでやはり歌が上手く「出前歌説法」で全国を講演して廻られているらしい。
 なんでここに来たのか理由は覚えていない。戸次川の戦いとは関係がなかったと思う・・・。
(山門)

87.鏡城・・・大分市大字竹中。四国連合軍が島津軍にどう対処するか軍議を開いた場所。ここで渡河が決定し戸次川の戦いが始まった。
感想:山頂に行く道が非常に狭かった。自分の車だったら麓において登っただろうな・・・。ここからだと戸次地区全体が良く見渡せる。
(鏡城山頂全景。二の丸か本丸のどちらからしい。碑があるが城とは関係がない)

(鶴賀城方面を望む。下に流れているのが戸次川(大野川)。この辺りが戸次川の戦いでもっとも激戦が繰り広げられた地点)

(上記の場所よりやや北川の中戸次辺りを望む。橋の右側の河川敷が大野川合戦まつりの会場)

88.長宗我部信親終焉の処・・・大分市上戸次利光。この辺りで長宗我部信親が戦死したと伝わっている。1988年に長宗我部一族と家臣の子孫、地元の方々によって碑が建立された。
(後ろの竹藪が信親が戦死した場所とあとから聞いた)

89.戸次川古戦場跡・・・大分市中戸次。
感想:この辺りに島津・四国連合の両軍がひしめいていたと思うと感慨深いですなあ・・・。

(古戦場跡。正面に見える山が鏡城)

(大野川と鏡城)

90.豊後鶴賀城・・・大分市上戸次利光。元々は豊後の豪族・緒方氏の城だったが、1196年に大友氏が入り、地元の豪族を一掃すると一族を入れた。1586年、島津軍に包囲された鶴賀城を救援に向かった四国連合軍だったが大敗。援軍の望みを絶たれた鶴賀城は奮戦したものの落城してしまう。
感想:二の丸に広場があるので、そこに駐車することができる。ただし道が軽自動車でもぎりぎりの幅で鋪装もまったくされておらず地元の方以外は麓から歩いて行った方が安全。

(二の丸にある利光越前守宗魚終焉之地。近くに建立した方の名簿があったが全員利光さんだった)

(二の丸にある鶴賀城址の碑)

(堀?)

(本丸)

91.長宗我部信親の墓・・・大分市上戸次。

92.十河一族慰霊碑・・・大分市上戸次。戸次川の戦いで戦死した讃岐の大名・十河存保をはじめとする十河一族の慰霊碑。
感想:十河同族会が建てたと聞いたことがある。慰霊に来る一族の方がおられるらしいのだが、高知の方が団体で来る日は絶対に避けるらしい。

93.鶴賀城戸次川合戦之碑・・・大分市上戸次。1588年に建てられた碑。戦いのあった12月12日には慰霊祭が行なわれる。

94.長宗我部信親の鎧塚・・・大分市上戸次。信親の鎧が埋めてあったと伝えられている場所。

95.土佐武士の墓・・・詳細は不明。地元の首藤家先祖の墓とも言われている。
感想:長宗我部信親の墓・十河一族慰霊碑・鶴賀城戸次川合戦之碑・長宗我部信親の鎧塚・土佐武士の墓は同じ敷地内にある。
 暑さで意識がもうろうとしていてあまり記憶がない・・・。写真がまともに撮れているだけでも奇跡だ。

96.願行寺・・・大分市中戸次佐柳4158。1586年、島津軍が攻めて来た際に焼失したが、1593年に梅厳和尚が再興している。梅厳和尚は長宗我部信親の引導を渡しており、当寺には信親と利光宗魚が位牌があり現在も永代供養をしている。
感想:ちょうど地域の方が集まっている最中でした。お邪魔しましたm(._.)m

(庭。この辺りの名所らしい)

97.念仏坂・・・大分市上戸次。島津軍と鶴賀城にいた大友軍が激突した古戦場。両軍とも多くの死傷者を出した。


 ここで戸次川の戦いに関する史跡巡りは終了のため、案内して下さった方とはお別れ。本当に本当にお世話になりました。ありがとうございましたm(._.)mm(._.)m

写真の提供についてはこちらをクリック