大和高田城(當麻氏の居城)

住所:奈良県大和高田市旭北町2

 1432年、當麻為貞が築城したと伝わる。1580年、當麻氏は織田信長の大和検地に従わなかったため領地を没収され、その後の筒井順慶の侵攻もあり没落する。1587年、當麻為政は豊臣秀長に招かれた際に討ち取られると聞き自害した。

 二重の堀があり西に大手門があったと伝わるが、現在は片塩小学校と池になっており遺構はない。

(小学校の南西の公園に建つ城址碑。左に見えるのは城趾の象徴だった樹齢400年のエノキの巨木だが、残念ながら数年前に枯れてしまったようだ)

(池)

感想:駐車場が無く周辺も狭いため車で行く方は気を付けて下さい。


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名称寺(石山合戦参戦の寺)

住所:奈良県大和高田市曾大根575

 浄土真宗本願寺派。1335年、本願寺の三代・覚如が百済大寺跡に和州百済二條道場を創建したのが始まりである。1455年、現在地に移転した。1490年には蓮如が当寺に滞在している。1570年に織田信長と石山本願寺の戦い(石山合戦)が起こると1572年9月に当寺も出陣したが、織田軍に攻められ落ちている。

(入り口)

(織田軍に抵抗するために造られた掘割)

(塀)

(1455年に建てられた本堂)

感想:大和でも一向一揆は織田軍と戦っていたんですね。初めて知りました。


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當麻寺(中将姫ゆかりの地)

住所:奈良県葛城市當麻1263

 浄土宗・真言宗並立。612年、用明天皇の第3皇子・麻呂古王が兄の厩戸皇子(聖徳太子)の教えを受けて、大阪府交野市(太子町とも)に万法蔵院を建てたのが始まり。その後、麻呂古王の孫・当麻真人国見が現在地に移している。
 1180年、平家の南都攻めの際に興福寺の末寺だった当寺も攻撃を受け、金堂が大破、講堂が焼失している。1184年に金堂が再建され、1242年頃に源頼朝が施主となり再興された。1370年、境内に浄土宗の往生院が建てられ真言宗と浄土宗が並立するようになる。
 中将姫ゆかりの地としても知られる。姫は右大臣・藤原豊成の娘で寺に伝わる曼荼羅を織ったとされる伝説上の女性。天平年間(729~749年)、当寺に入山し仏行に励んだ姫は、その徳により仏に会い、一晩のうちに蓮華の糸で曼荼羅を織りあげ、女人の身ながら極楽往生したと伝えられる。姫の出家の動機を継母による継子虐待の物語として歌舞伎、浄瑠璃、謡曲などに脚色されている。
 境内には11の塔頭があり、本堂や金堂など国宝や国重要文化財の伽藍が多数ある。

(仁王門)

(境内)

(国宝・梵鐘)

(中之坊。役小角が道場として開き、その後に真言宗の霊場となっている)

(大和三名園の一つ・香藕園。片桐石州(片桐貞昌。片桐且元の甥)が改修している)

(中将姫誓いの石。姫が寺に入る際、女人禁制だったため許可されなかったが、入りたい一心で三日間念仏を唱えたところ、この足跡がついたという)

(茶筅塚)

(国重要文化財・講堂)

(国重要文化財・金堂)

(中将姫の像)

(国宝・本堂)

(奥院の楼門)

(何の像だろう…?)

(国宝・西塔)

(紅葉)

(日本最古の石灯籠らしい)

(国宝・東塔)

感想:寺の規模の割には駐車場が少なく駐めるのに苦労しました。


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