土佐烏ヶ森城(北川城。北川玄蕃の居城)

●土佐烏ヶ森城(北川城)
住所:高知県安芸郡北川村柏木(字 城山)
駐車場:駐車スペースあり
遺構:曲輪、堀切、土塁、竪堀
標高:263メートル/比高:230メートル

 城の北と西には奈半利川が南には野川川が流れ天然の濠となっており、東側は急斜面になっている。
 築城年代は不明。建久元(1190)年には当地を支配していた北川氏の居城で、戦国時代には土佐一条氏に従い北川村だけではなく奈半利町まで勢力を広げていたという。戦国時代末期には北川玄蕃頭道清が城主となった。
 永稼12(1569)年7月、長宗我部元親が安芸郡に侵攻してくると玄蕃頭は安芸国虎に味方し息子・右衛門太夫を援軍として送ったが、国虎の居城・安芸城は落城し右衛門太夫は戦死している。同年秋、元親は更に東へと進軍し烏ヶ森城に迫った。元親の離間策に嵌まった玄蕃頭は味方の浜宇津十郎左衛門を騙し討ちにしてしまい力を削がれ、しかも城内に内通者が出て城への道を誘導したため玄蕃頭は城を捨てて打って出る。しかし元親の家臣・福留権左衛門に討たれた。

(南の野川川沿いにある烏ヶ森城の入口。自分はここから登るのが面倒で上まで車で行った)
入口

(城の近くの駐車スペースに駐めて西に歩くと、やがて城域の南の堀切群Ⅰに出る。詳しくは下の概略図を参照)
堀切群Ⅰ

堀切群Ⅰ

堀切群Ⅰ

堀切群Ⅰ

堀切群Ⅰ

(主郭であるAの曲輪。竪堀や土塁があったらしいのだが、雑草が多く分からなかった)
主郭

主郭

主郭

(主郭の中央にある展望台。100円を入れると見られる望遠鏡があったが今でも機能しているのか不明。ここから奈半利川や太平洋が一望できる。落城時には長宗我部軍も見えたはず)
展望台

展望台

展望台

(Bの曲輪)
Bの曲輪

(堀切群Ⅱとなだらかな斜面)
Ⅱの堀切群

Ⅱの堀切群

Ⅱの堀切群

Ⅱの堀切群

Ⅱの堀切群

(最北端にあるCの曲輪)
Cの曲輪

参考文献:高知県の地名、土佐の山城、北川村史 通史編、北川物語

感想:城自体は昔に整備されており、雑草は多いものの見学しやすいです。車なら駐車スペースも近いですし気軽に行ける城です。ただし駐車スペースまでの車道は狭く、車の運転に自信のない方は下から頑張って登ってください。

(概略図)
概略図



高知坐神社(長宗我部元親参詣の神社)

●高知坐神社(たかちにますじんじゃ)
住所:高知県宿毛市平田町4233
駐車場:鳥居の横が駐車スペース?

 祭神は都味歯八重事代主神、大国主尊、素盞嗚尊。波多国造が創建したと考えられ延喜式にも記載のある古社である。名前の読みの由来は「土佐国式社考」によると「御神体が納められていた杉の箱を高持者(たかもちもの。江戸時代、年貢付きの田畑を持って、持高相当の年貢、諸役を勤める中堅の百姓。この場合は土地の有力者のことか?)が作成し、それが訛って「たかちにます」になった」とある(延喜式には記載が「たかしります」になっている)。中世には「高持者大明神」「高持社」と呼ばれていた。
 「南路志」には天文13(1544)年に一条房基が大檀那となって息子の一条兼定の長寿を願い造営したという棟札の写しが記載されている。天正3(1575)年、渡川の戦いで兼定に勝利した長宗我部元親が帰陣の最中に当社を参拝したと「土佐物語」に記載がある。近世になると当地を治めた宿毛山内氏の崇敬が篤く現在の社殿を明和5(1768)年に修復した。

(鳥居)
鳥居

(この碑がいつ建てられたか確認するのを忘れたが、地元では波多国造は崇神天皇の時代に当社を創建したと信じられているらしい)
碑

(石段)
石段

(境内にあるイチイガシ。ブナ科の常緑高木でドングリは食べられる)
イチイガシ

(拝殿)
拝殿

(文化財の本殿は非公開。左右には大国主尊、素盞嗚尊を祀る社殿が建つ)
社殿

社殿

社殿

感想:朝、参拝したので爽やかな気分で一日がスタートできました。



土佐神田南城(朝倉城攻めで長宗我部氏の最前線となった城)

●土佐神田南城(こうだみなみじょう)
住所:高知県高知市神田(字 白土越)
駐車場:なし。入口周辺は住宅街で道も狭く駐車スペースもない
遺構:曲輪、帯曲輪、土塁、竪堀、横堀、石積み
標高:100メートル/比高:82メートル

 永禄年間(1558~1570年)、栗山城(十市城)の城主・細川宗桃が築城し、のちに家臣の鍋島修理が城代となり守備したという。永禄3(1560)年、長宗我部元親によって浦戸城から撤退させられた本山茂辰が朝倉城に籠もって抵抗。神田南城と朝倉城の間で両軍が何度も激突した。修理も戦いで戦死し高知市鴨田には修理の墓(祀っている祠?)が残っているという。元親が朝倉城から茂辰を撤退させた後に城がどうなったのかは不明である。

(城の入口にある八幡宮の鳥居。隣には城の説明板もあった)
鳥居

(下の縄張図の二ノ段から見た虎口と主郭(詰ノ段)から見た虎口)
虎口

虎口

(主郭。八幡宮と電波塔がある。周りには土塁と石積みがあった)
主郭

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭

(二ノ段)
二ノ段

二ノ段

二ノ段

二ノ段

二ノ段

(二ノ段にあった散乱した石とビール瓶。石は八幡宮のものだろう。山城とビール瓶は切っても切れないものがある)
石とビール瓶

(三ノ段)
三ノ段

三ノ段

三ノ段

三ノ段

三ノ段

三ノ段

(ここら辺から横堀や竪堀に入って自分の位置を見失ってきたが、GPSを頼りに石段まで出られた)
横堀や竪堀

横堀や竪堀

横堀や竪堀

横堀や竪堀

参考文献:高知県の地名、土佐の山城、高知市の城跡、日本城郭全集 第13

感想:八幡宮への参道があるため容易に登れます。ただし鳥居に行く入り口が分かりづらいため、下のGoogleMAPを参考にしてください。
 神田南城の北の能茶山(高知市鴨部)に神田城(神田旧城)があり、その南にあったためこう呼ばれています。神田城は宅地開発、土佐藩が経営した窯が開かれたなどの要因で消滅しました。

(縄張図)
縄張図