播磨 北条砦(羽柴軍もしくは毛利軍の陣所跡?)

●播磨 北条砦
住所:兵庫県佐用郡佐用町下秋里(字 北条)
駐車場:不明
遺構:曲輪、土塁、堀、土橋
標高:301メートル/比高:211メートル

 築城年代など城史は全て不明。羽柴秀吉軍の陣所と伝わる目高の築地と上月城の中間にあるため、羽柴軍(もしくは毛利軍)が上月城を攻めるために削平された可能性がある。

(目高の築地への途中、この案内板を見たので周辺を調べてみた)
案内板

(曲輪1)
曲輪1

曲輪1

曲輪1

(南東に延びている曲輪2。下秋里の谷から来る敵への警戒のため?)
曲輪2

曲輪2

曲輪2

(土橋)
土橋

土橋

感想:目高の築地のある西側に土橋がある以外は目立った防御施設がないことから、目高の築地が抜けられた際に敵を食い止めるために築城されたのかもしれませんが、不明な点の多い砦です。
 昭和時代の本を読むと寄延陣屋というのがありここからもしれませんが(砦の場所が下秋里と寄延の境にある)確証がありません。

(概略図)
概略図



百丈山臨済寺(赤松義則の墓)

●百丈山臨済寺
住所:兵庫県姫路市夢前町新庄1468-4
駐車場:あり

 臨済宗。永和5(天授5,1379)年、播磨などの守護大名だった赤松義則が別峯国師を招いて創建した。天正年間(1573~92年)に兵火で焼失するが、延宝3(1675)年に姫路城主・松平直矩が再建している。

(山門)
山門

(本堂)
本堂

(大師堂)
大師堂

(夢前七福神の大黒天)
大黒天

(弘法大師の母親 阿古屋御前の像)
阿古屋御前の像

(境内にある八十八箇所)
八十八箇所

八十八箇所

(赤松義則の墓)
赤松義則の墓

(別峯国師の墓(石造無縫塔)。県指定の重要有形文化財になっている)
別峯国師の墓

参考文献:兵庫県の地名2、臨済寺のパンフレット、姫路市公式サイト

感想:松平直矩息女の五輪塔と思われるものがあり写真を撮りましたが確証がないため載せませんでした。
 山門の前で住職のお孫さん(?)が杭を打っていたのが印象に残っています。



播磨 置塩城(小塩城、藤ノ丸城。赤松氏の居城)

●播磨 置塩城
住所:兵庫県姫路市夢前町宮置(字 城山)
駐車場:あり
遺構:曲輪、竪堀、石垣、竪堀、建物礎石
標高:369メートル/比高:315メートル

 国指定史跡。文明元(1469)年、赤松政則が築城されたとされるが山名政豊が但馬に撤退した長享2(1488)年頃とも言われる。この時の築城も現在残る山城ではなく麓にあったと推測されている。今の山城は天文年間(1532~55年)に築かれ、現在のような形になったのは元亀年間(1570~73)前後だと夢前町(現・姫路市)の調査で判明した。
 戦国時代の赤松氏の居城だったが、備前守護代の浦上村宗との戦い、尼子晴久の播磨侵攻では城から逃れている。永禄12(1569)年、毛利元就の要請で織田信長の軍勢が播磨・但馬に攻め込んだ際、反織田方だった赤松義祐は置塩城を攻められたが持ち堪えた。その後、義祐の子・則房は織田信長に従い、羽柴秀吉が播磨を平定すると置塩城は破城されている。

(全景)
全景

(入口。ここも害獣用の柵を開けて進むようになっていた。道路の向かい側には駐車場もある)
入口

入口

(登山道は整備され、どれだけの距離を登ったか分かるように石柱もある。山頂付近は18丁(約1900メートル)だったかな)
登山道

(登山道を登ると最初にあるVの南曲輪群。南に延びている。写真は下の案内図のV-7。これからは全て下の案内図に沿って説明する)
V-7

V-7

(南曲輪群V-8)
V-8

V-8

(南曲輪群V-9。急斜面だったので降りなかった)
V-9

(南曲輪群V-5)
V-5

(南曲輪群のオレンジ色のV。伝茶室跡らしい)
オレンジ色のV

オレンジ色のV

オレンジ色のV

オレンジ色のV

(南西曲輪群のオレンジ色のⅥ)
オレンジ色のⅥ

オレンジ色のⅥ

(Ⅵにある竪堀)
Ⅵにある竪堀

(南西曲輪群Ⅵ-2の曲輪)
Ⅵ-2

(南西曲輪群Ⅵ-3の曲輪)
Ⅵ-3の曲輪

(南西曲輪群Ⅵ-3の曲輪の大石垣)
Ⅵ-3の曲輪の大石垣

(南西曲輪群Ⅵ-3の曲輪から南西方面を望む。下を流れている夢前川は、かすかに見える瀬戸内海に出る)
南西方面を望む

(城の中央に位置する曲輪群Ⅱ。伝二の丸らしい。写真はⅡ-2で石垣があり、西には竪堀があった)
石垣

Ⅱ-2

Ⅱ-2

(Ⅱ-3。東には通路に出るための虎口のようなものがあった)
Ⅱ-3

Ⅱ-3

Ⅱ-3

(南北に長いⅡ-4の曲輪)
Ⅱ-4の曲輪

Ⅱ-4の曲輪

Ⅱ-4の曲輪

Ⅱ-4の曲輪

(左右に曲輪がある通路A)
通路A

通路A

(東西に長いⅡ-5の曲輪)
Ⅱ-5の曲輪

Ⅱ-5の曲輪

(Ⅱ-6の曲輪)
Ⅱ-6

(南西曲輪群のオレンジ色のⅡ)
オレンジ色のⅡ

オレンジ色のⅡ

オレンジ色のⅡ

オレンジ色のⅡ

(北東曲輪群Ⅳ。伝二の丸北曲輪群らしい。写真はオレンジ色のⅣ)
オレンジ色のⅣ

(曲輪Ⅳ-2)
Ⅳ-2

Ⅳ-2

(曲輪Ⅳ-3)
Ⅳ-3

Ⅳ-3

(東曲輪群Ⅰ。伝本丸らしい。写真はⅠ-2で曲輪群ⅣとⅠを繋いでいる。石垣が修復中だった)
Ⅰ-2

Ⅰ-2

Ⅰ-2

(曲輪Ⅰ-3)
Ⅰ-3

Ⅰ-3

(曲輪Ⅰ-4)
Ⅰ-4

Ⅰ-4

(南西曲輪群のオレンジ色のⅠ。ここが本丸で建物の礎石が見つかっている。折れた石柱が哀愁を漂わせていた。どうして折れたのか気になった)
オレンジ色のⅠ

オレンジ色のⅠ

オレンジ色のⅠ

(本丸からの景色。曲輪Ⅵ-3からの景色の方が遮るものがなくて良かった)
本丸からの景色

本丸からの景色

(曲輪Ⅰ-5)
Ⅰ-5

Ⅰ-5

Ⅰ-5

(曲輪Ⅰ-6。急斜面だったので降りなかった)
Ⅰ-6

(戻って北東曲輪群のⅣ-4に行く。凸凹していて何がなんだか分からなかった。これが破城の跡・・・? にしては限定的すぎるか)
Ⅳ-4

Ⅳ-4

Ⅳ-4

(Ⅳ-4になぜか潤滑油のスプレー缶が落ちていた)
潤滑油のスプレー缶

(北曲輪群Ⅲ。伝三の丸らしい。写真はⅢ-2の曲輪)
Ⅲ-2の曲輪

Ⅲ-2の曲輪

Ⅲ-2の曲輪

Ⅲ-2の曲輪

(曲輪Ⅲ-3。急斜面だったので降りなかった)
Ⅲ-3

(北曲輪群のオレンジ色のⅢ。西側に竪堀があった)
オレンジ色のⅢ

オレンジ色のⅢ

オレンジ色のⅢ

オレンジ色のⅢ

オレンジ色のⅢ

(Ⅲから西曲輪群Ⅶに移動。写真の曲輪はⅦ-2。自分は直接、西曲輪群を降っていったが案内図にあるように南側に道があるので、そちらを利用した方が安全である。自分も帰りはそちらを通った)
曲輪はⅦ-2

曲輪はⅦ-2

曲輪はⅦ-2

(曲輪Ⅶ-3)
曲輪Ⅶ-3

曲輪Ⅶ-3

(西曲輪群のオレンジ色のⅦ。ここら辺で疲れがピークになり早く帰りたくなった)
オレンジ色のⅦ

オレンジ色のⅦ

オレンジ色のⅦ

(曲輪Ⅶ-4)
Ⅶ-4

Ⅶ-4

(曲輪Ⅶ-5と下に続いている曲輪群。下山のことも考えて、ここで引き返した)
曲輪Ⅶ-5

曲輪Ⅶ-5

曲輪Ⅶ-5

曲輪Ⅶ-5

曲輪Ⅶ-5

(駐車場の一角に建つ山城サミットの碑)
山城サミットの碑

参考文献:兵庫県の地名2、図解 近畿の城郭1、図説日本の城郭シリーズ16 秀吉の播磨攻めと城郭

感想:見ていただいた通り70以上の曲輪がある巨大な山城で播磨地方最大級だそうです。途中で飽きてきて後半は写真が適当になりました。しかも疲れで帰りに居眠り運転をしかけて、ちょっと危険でした。駐車場で仮眠すれば良かったのですが、降りた直後は興奮していたのか眠気がなく出発してから急に眠気が襲ってきました。
 日曜日に行った時は登山客が数組おり、城ではなく登山コースとして人気のようでした。

(案内図。クリックすると別のタブが開きます)
案内図