中国・九州史跡巡り2010(11日目中盤:柳川城・立花宗茂の墓・田中吉政の墓・三柱神社)

115.御花・・・柳川市新外町1。柳川藩主・立花家の別邸。柳川藩に関する史料館、国指定名勝・松濤園などがある。
感想:ブライダルフェアをやっていたので見学しづらい雰囲気だった。「ゆっくり見て下さい」と従業員の方に笑顔で言われたが落ち着かなかったので、軽く見学してすぐに出た。

(松濤園)

116.柳川城・・・柳川市本城町88-2。立花氏の居城。現在は柳川高校になっており遺構はほとんど残っていない。
感想:10年前の日記にも書いたが、福岡の方から聞いた「明治維新後も建物が残っていたが、家宝が国に没収されそうになったので立花家自身で城を燃やして、一緒に燃えちゃったことにしたらしい」という話が印象に残っている。

(天守台跡)

117.田中吉政の像・・・柳川市坂本町。立花家の前の柳川城主で柳川市の基礎を築いた街造りの名人・田中吉政の銅像。
感想:市民の方から、柳川市は田中氏と立花氏、二人の殿様が連立していて、一丸となって街を盛り上げるのが難しい状況だと聞いた。
 銅像のある場所が狭くて車が駐めづらかった。川下りの最中に見るために作られたような感じだから仕方がないけどね・・・。

118.福厳寺・・・柳川市奥州町32-1。立花家の菩提寺。初代藩主・宗茂が岳父の道雪の菩提寺として建てたのが始まり。立花道雪・宗茂を初めとする歴代藩主の墓がある。

(立花宗茂の墓)

119.良清寺・・・柳川市西魚屋町49。宗茂の妻で道雪の娘・ぎん千代の墓がある。
感想:かなり体力を消耗していたので副住職さんのご好意で休憩させていただいた。しかしぎん千代について詳しくないので、雑談しかできなかった。
副住職「最近は若い人が来るようになって。ぎん千代さんがゲームに出てくるらしいですね。それで人気があるらしいです」
私「そうなんですか。聞いたことがあります」
 ぎん千代についての会話はこれくらいしかしてないと思う・・・。

(ぎん千代の墓)

120.瑞松院・・・柳川市片原町15-1。良清寺の南向かいに位置する。宗茂の側室・瑞松院の墓がある。
感想:お寺が幼稚園も経営されており、その園児のお遊戯ステージが瑞松院の位牌が安置してある本堂。瑞松院に見てもらいながらのお遊戯。素敵です。

(本堂)

121.天叟寺・・・柳川市鍛冶屋町23。瑞松院の西向かいに位置する。宗茂の実父・高橋紹運の墓がある。
感想:モンスターのカードを握った住職のお孫さんらしき人に案内してもらいました。結構、人が来るのか聞いたら「たまに」との答えが返ってきた。

(高橋紹運の墓)

(入り口にある高橋紹運公四百年記念塔)

122.真勝寺・・・柳川市新町5-10。柳川城主・田中吉政の菩提寺。1611年、吉政の息子・忠政が建立した。
感想:吉政の命でここの住職は草野氏(久留米市にいた豪族)になったらしい。現在も末裔の方が住職をされています。
 墓石は本堂の下にあり、本堂全体が吉政のお墓になっている。

(本堂)

(本堂下にある田中吉政のお墓。必ず許可を得てから行くこと)

123.三柱神社・・・柳川市三橋町高畑323-1。1826年、柳川藩10代藩主によって創建された。立花道雪・宗茂・ぎん千代を祀る。
感想:平成17年、放火で焼失したらしい。はぁ・・・TT

(三柱神社の本宮?仮宮?)


124.加藤清正陣営跡・・・柳川市三橋町中山。関ヶ原の戦いで西軍に味方した立花宗茂は近畿から無事に柳川城に戻ったものの、周囲を東軍に囲まれてしまう。しかし加藤清正の調停で柳川城を明け渡し滅亡を免れた。ここはその時、清正が陣を構えた場所。
感想:ブログやサイトで分かりづらいという書き込みを見ていたので綿密に事前調査をして行った。おかげで迷うことなく行けた。迷ってうろうろするなら、それを調査する時間に使った方がいいと感じた瞬間だった。

 柳川市はこれにて終了。大川栄策出身地でお馴染みの大川市を通って、探してみよう佐賀県に行く。

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中国・九州史跡巡り2010(7日目前半:門司城・高田又兵衛の墓・小倉城)

 2010年8月17日(火)、高速道路の夜間割引を使うため朝の3時半にホテルを出発。途中、山口県のPAで寝て休憩していたので朝の7時半にようやく北九州市に上陸。

57.門司城・・・北九州市門司区門司。源平合戦の時代、平知盛が源氏との戦いに備えて築城したのが最初といわれている。戦国時代には、大内氏と大友氏、大内氏滅亡後は毛利氏と大友氏が九州の入り口に当たるこの城をめぐって激しい争奪戦を繰り広げた。一国一城令によって廃城となる。
感想:遺構らしきものはほとんど見当たらなかった。和布刈公園は何度も来ているが城に行くのは初めて。

(本丸跡にある碑)

(下関方面を望む)


58.福聚寺・・・北九州市小倉北区寿山町6-7。小倉藩主となった小笠原忠真が菩提寺として創建した。大寺院であったが、1866年の第二次長州征伐で建物の多くが焼失し、しかも長州藩が本陣としたため荒廃した。
感想:小笠原忠真廟所はお寺から少し離れたところにあり、しかも入ることが出来なかった。残念・・・。

(境内)

(小笠原忠真廟所)


59.生往寺・・・北九州市小倉北区京町4丁目4-37。槍の名人として知られる高田又兵衛の墓がある。
感想:参拝は自由なんだけど、柵に囲まれていて案内板を読むのと写真を撮るのに非常に苦労した・・・>< 魚眼レンズでもない限り、全体は撮れんで。

60.小倉城・・・北九州市小倉北区城内2-1。1569年、毛利氏が城を築いたといわれる。関ヶ原の戦い後、細川忠興が改築し城下町を形成した。細川氏が肥後に移封された後、新しい城主となった小笠原氏の居城となる。しかし1866年の第二次長州征伐で長州藩に破れた小倉藩は撤退の際に自ら火を放ったため、建物の全てが灰燼に帰した。現在の天守閣は1959年に復元されたものである。
感想:10年振りやのう。近くにでっかいショッピングモールができていた。小倉城といえばバーベキューをやっている人がいるというイメージがあったのだが、この日はいなかった。

(堀と石垣)

(旧第十二師団司令部の正門)

(復元天守入口では小倉城マスコット・とらっちゃがお出迎え)

(復元天守)

(大手門跡)


61.浄喜寺・・・行橋市大字今井1802。浄土真宗のお寺。村上水軍の流れを汲んでいる。石山合戦の際、住職の良慶は領民を連れて西に向かい、途中、安芸の門徒とも合流して近畿に上陸した。そして合戦で教如から「命の恩人」と呼ばれるほどの活躍をしている。石山合戦後は上杉景勝に加勢するため越中に向かうが、本能寺の変が起こると九州に戻った。細川・小笠原氏の庇護を受けている。
感想:次の目的地である天徳寺と勘違いして「宇都宮氏のお墓はどこですか?」と聞いてしまった。それでも住職さんがいい方でご丁寧に本堂などを案内してくださった。失礼しました・・・。暑さで頭がやられていたということで許してください。

(山門)

(本堂)

(村上水軍井戸。昔は海のすぐそばにあり村上水軍の城があったらしい)


62.天徳寺・・・築上郡築上町大字本庄361。宇都宮氏(城井氏)の菩提寺。宇都宮長甫・鎮房・朝房の墓がある。宇都宮氏は伊予への移封を拒み、最後は黒田如水に誘殺されたことで知られる。
感想:とにかく山の中を走ったという印象がある。

(宇都宮鎮房の墓)


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筑紫の国史跡巡り2001(秋月城・岩屋城)

 前々から計画していた福岡行きを実行。目的地は秋月・大宰府・柳川。メンバーは、備前守様(浅井派、地元なので今回のリーダーです)・うきき様(森&織田派)・こまる様(派閥不明)・筑後川の4人です。平成13年2月3日(土)午前10時40分、博多駅を降りると同じくJRを利用されていたうきき様と合流。そのままこまる様と備前守様と合流するために福岡空港へ。早く着いた上に飛行機が遅れた備前様が渋滞に巻き込まれたのでかなりの時間、空港でうきき様と歴史の話しをしておりました。ターミナルを間違えなかなか会えませんでしたが、何とか4人揃うと福岡県甘木市秋月へ出発。
 この日は天気もよく快適な旅となりました。昼過ぎ、私の滅茶苦茶なナビに振り回され細い道を通りながら秋月へ到着。食事をすますといざ秋月城へ。
 しかし特に見所はなかったので、すぐに終了。

(秋月城之碑)

 とにかくどこを回っても見所がない秋月城址を見学し終わると太閤腰掛石を見に行く・・・がどこにあるか分からなかったので諦めて秋月郷土館&美術館に。ここは見所たっぷりで黒田長政の太刀や兜などいろんな物が展示してありました。そこでは素敵な体験が出来ました。なんと印槍などが実際に持ってみることが出来るのです!(うそ、本当は無造作に奥の方に立ててあったのでみんなで勝手に持って触ったのだ)。重いねえ、旗印とかは。あんなん一人で持つなんて非力な私には考えられないです。
 その美術館で秋月はおしまい。続いては学問の神様・菅原道真公を奉ってある大宰府天満宮へ。ここで竜馬のピストルが置いてあるということでうきき様を先頭に『大宰府天満宮宝物殿』へ。でも、中に入るとそれを忘れてみんな他のものを見て回ってました。それが終わると次は天満宮と飛梅へ。何でも九州に左遷させられた道真公を慕って実が飛んできてこの地に埋まったとのこと。一通り見て回ると次はお土産を購入、ということで私は梅茶を購入。この時、みんながそのお店の奥に鎧があるのを発見。見せてもらう。

(お店の奥にあった黒田家の鎧(確か9代目くらいだったような・・・))

一日目はこれにて終了。次はメインの福岡市での飲み会です。備前様の華麗なドライビングテクニックで天神にたどり着き、楽しく飲み食い。歴史の話しが多かった気がする。一次会が終わると次は暗げなバーに場所を代え酒を飲む。ここでは・・なんの話ししたっけ? こまる様が眠たそうだったのしか記憶にないです。 これが終わり各自ホテル&自宅に向かう(帰りに博多駅前の母里太兵衛の銅像が夜になると爆走するということを備前様から聞く)。ホテルに帰ると疲れきっていたのですぐに就寝、、、。

 二日目。あいにくの雨でしたが博多駅で集合し岩屋城へ向かう。が、近くの大宰府展示館が目につき中へ、、、。大人の入場料が150円(だったと思う)と安く、おまけに館の方の30分にも渡る説明つき。私は古代史はまったく興味がないのですが、このお話を聞かせてもらって『平安時代とかも調べたら面白いかも』と感じた今日この頃でした。ここで無料で見られるビデオに、『壮烈!岩屋城』なるものを発見。見たかったが60分(その時間が壮烈です)の長丁場なので諦める、、、。
 続いて観世音寺というところへ。由来は忘れた。ただ覚えているのはここが島津軍が岩屋城を攻めたときに本陣を置いたということだけです。ここもちょちょいっと見ていよいよ岩屋城へ。岩屋城は大宰府の上にあり、昔朝鮮からの備えで築かれた大野城の中腹に位置します。なので、すごく場所の悪いところにあります。狭くて急でカーブの多い道をすり抜けると岩屋城の看板が、、、。
 まず最初に行ったのはその岩屋城主・高橋紹運のお墓。場所は岩屋城の二の丸。ここまでの道がすごく急で大変でした。でも、後からちゃんとした道があるのに気づく、、、。

(お墓を取り忘れたので、近くにあった記念碑を・・・)

 続いて行った岩屋城本丸。な~んもなくて寂しいところです。これが有名な記念碑ね(後ろに見えるのはなぜかあったテーブル)。歴史好きはここでの合戦をこの場で想像して楽しみましょう。

(嗚呼壮烈岩屋城跡の碑)

 続いて行ったのが水の都・福岡県柳川市。立花家13代の城下町である。お昼過ぎだったので、まずは名物のうなぎ屋さんに行く。うなぎ料理を堪能するといよいよメインの川下りへ。雨降りだったので合羽を借りて、臨時の炬燵まで作っていただいていざ川下りに挑戦。最初のうちはそれを楽しむ4人であったが、段々無口になるに説明も耳に入らなくなってくる、、、。なぜか? そう、とにかく寒い!寒いのである!しゃれにならんくらい。お蔭様で写真を取る気にもならなかった(体が固定されて動かないのである)。この川下りの最中、他にそれをされている人達と一回も合わなかった。
 1時間に渡る我慢大会が終わると次は立花家の資料がたっぷりの御花へ(元は立花家の別邸だったとのこと)。ここはもう宗茂関係が沢山で俺はもうウハウハでした。この中で立花家の家系図が飾ってあるのを見つける。これが実に細かい・・・のはいいが、現代まで載っていた(平成8年に生まれたお子さんとかまで、しかも学歴までびっしりと)。明治くらいまででいいじゃん。私なら絶対載せられるのは嫌だ。

(松涛園)

 ほいで最後は柳川城址へ。ここは今は柳川高校の敷地になってます。野球とテニスが強いので有名な柳高ですね~。立花家の強さは今でも根付いているようです。

(柳川城址)

 な~~んもないです。明治初めに焼失しちゃったらしいです。博学のうきき様の話しですと、『立花家の家宝が国に没収されそうになったので城を燃やして、一緒に燃えちゃいましたってことにしたんですよ』とのことです。やるな、立花家、、、。
 これにて旅行は終了。しかしここで最後の難題が。こまる様をお送りするのに福岡空港まで1時間ちょいで行かないといけなくなったのである。だが、なんとか間に合い、博多駅で3人も解散。楽しい日々はあっという間に終わったのでした。

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