細川幽斎さんと島根県を旅しよう!その4(九州道の記・大田市編)

(4月29日のルート。実際の道は考慮せず通過した場所を直線で結んでいます)
29~3日のマップ(出雲大社~温泉津)

4月29日~5月3日:廿九日。石見の大浦といふ所に泊りて、明くる朝、仁間といふ津まで行くに、石見の海の荒きといふ古事にもたがはず、白波かかる磯山の巌そばだちたるあたりを漕ぎ行くとて、
『これやこの 浮き世を巡る 舟の道 石見の海の 荒き波風』
 それよりやがて銀山へ越えて見るに、山吹といふ城、在所の上にあるを見て、
『城の名も ことわりなれや 間歩よりも 掘る銀(しろがね)を 山吹にして』
 宿りける慈恩寺、発句所望。庭前に楓のあるを見て、
『深山木の 中に夏をや 若楓』
 湯の津まで出でて、宝塔院に宿りけるに、先年連歌の一巻見せられしことなど、かたみに申し出で侍りしに、五月三日、発句所望にて、その夜百韻を連ね侍り。
『浪の露に 笹島茂る 磯辺かな』

 29日に大浦(大田市五十猛町の大浦港)に泊まって30日には仁間の津(大田市仁摩町の港)まで行くと、昔からの伝え通り石見の海は荒く白波のかかる磯山の険しい断崖の辺りを舟が進むのを眺め歌を詠んだ。
「今の風景は人生を巡る航路のようだ」
 それから石見銀山(大田市大森町)方面に山越えをすると山吹城(大田市大森町)が村の上にあるのが見えた。
「間歩(坑道)から掘り出される銀を山吹色(金)に替えるから、城の名前が山吹なのはもっともな理由である」
 その後、宿泊した慈恩寺(場所は不明)で発句を求められたので、庭にある楓を見て
「深山木(深山に生えている木)の中にある楓の若葉が夏の雰囲気を出している」
 と詠んで送った。
 温泉津まで出て宝塔院(大田市温泉津町温泉津の惠珖寺)に宿泊し何年か前に連歌の一巻を見せてもらったことなどの思い出を語り合っていると、5月3日に発句を求められる。そこでその夜に百韻(連歌や俳諧連句で、一巻が一〇〇句で成り立っているもの)を連ねた。
「波しぶきで笹島(大田市温泉津町小浜。現在は本土と繋がっているが当時は島だった)の礒辺の笹が茂っている」

(大浦港(五十猛港))
大浦港(五十猛港)

(山吹城)
山吹城

参考文献:新編日本古典文学全集48(中世日記紀行集)、島根県の歴史散歩、島根県の地名



細川幽斎さんと島根県を旅しよう!その3(九州道の記・出雲市編)

(28日のルート。実際の道は考慮せず通過した場所を直線で結んでいます)
28日のマップ(出雲大社)

4月28日:廿ハ日。佐陀を出でて秋鹿といふ所にて、湖水の小舟に乗りて平田まで行くに、「生浦なり」と舟人のいふを聞きて、
『礒枕 恨みやおふの 浦千鳥 見果てぬ夢の 覚むる名残に』
 かやうにして、暮れかかるほどに杵築の社に至りて、宝前を始め末社など、こなたかなだ見巡りて尋ぬるに、当社両神司千家・北島、いづれも国造となんいひけり。その家々見物して、その後旅宿を借り出でて、椎葉ばかりに盛りたる飯など食ひて休み居たる所に、若州の葛西といふ者尋ね来りて対面しける。
 太鼓打つ人にて、若き衆多く同道ありて、一番聞くべきよしあれば、さらばとて催しけるに、両国造より所につけたる肴・樽など使にて送られけるほどに、笛・鼓の役者ども来込みて、夜更まで乱舞ありける。思ひかけぬ事なりき。

 佐太を出て秋鹿(島根県松江市秋鹿町)から小舟で宍道湖を進み平田(出雲市平田町)まで行くと、船頭が「生浦(おうのうら。場所は不明)です」と言うのを聞いて歌を詠んだ。
「磯で寝ている千鳥は恨みを追っているのだろう(生浦の『おう』と『追う』を掛けている)。見果てぬ夢から覚めて名残惜しそうだ」
 日が暮れ始めた頃、出雲大社に着くと宝前(神仏をまつった所の前)や末社などを見て廻って尋ねていると、当社の神主の千家と北島は両方とも国造だと言っているのを知った。その家を見物した後、宿を借りて粗末な食事を休んでいると若狭(福井県南西部)の葛西というものが尋ねて来たので対面している。
 葛西は太鼓打ちで若い人達を多く連れてきて一曲聴いて欲しいと言うので音楽会が始まった。すると両方の国造から地元の肴や樽などが送られ、笛や鼓の役者も入ってきて夜更けまで乱舞があった。幽斎としては思いがけないことになった。

(宍道湖と松江市)
宍道湖

(平田の街並み)
平田の街並み

4月29日:廿九日。朝なぎのほどに、回しつるものども巡り来て、「急ぎ舟に乗れ。日もたけにけり」と言へば、心あはただしくて、
『この神の 初めて詠める 言の葉を 数ふる歌や 手向なるらん』
『逮于素戔嗚尊到出雪国、始有三十一宇詠』
 とあれば、やうやう字の数を合するばかりを手向にしたりといふ心ざしばかりになむ。この短尺を千家方に遣わしけるに、「両司なれば一方へはいかが」と主が言ひける、俄なれば同じ歌を書いてやりける。また、また、当社本願より発句所望なれば
『卯花や 神の斎垣の 木綿鬘』
 かやうに書きやりけるに、千家方より、「今の発句は、北島にて連歌たるべし。わが方にても同じく張行すべし」とて、舟に乗る所に追ひつきて発句所望なり。いそがはしぎに成りがたきよしたびたび申せしかども、所の習ひにや、おりなく申されけるほどに、人の心を破らじとて思ひめぐらす折ふし、郭公(ほととぎす)の名乗りければ、
『郭公 声の行方や 浦の浪』

 朝凪(朝、陸風と海風が吹き変わる時の現象で海辺の風が一時止まること)の頃、加賀から回した舟が辿り着いて
「急いで舟に乗って下さい。日も高くなりました」
 と言うので、慌ただしい中で歌を詠んだ。
「ここは出雲の国に関係した神が初めて詠んだ歌の言葉数に沿って詠むのが手向けになるだろう」
『素戔嗚尊が出雲の国に到達した際、初めて三十一字の歌を詠んだ』と伝わるので、何とか字数を合わせて手向けにしただけの歌である。この短尺を千家に贈ったところ
「両司なのに一方だけはいかがなものか」
 と主人(宿の主人?)が言うので、即座に同じ歌を書いて贈った。また当社の施主から発句を求められたので
「卯の花が斎垣(社など、神聖な場所の周囲にめぐらした垣)にかけてある木綿鬘(物忌(ものいみ)の標識として頭部にかける木綿でつくった鬘。木綿(ゆう)の糸を冠や榊(さかき)などにかけたもの。中古ごろ、神事などに用いられた)のように咲いている」
 と書いた。すると千家家が船着き場まで来て発句を求めた。
「今の発句は北島家の連歌会のものにしましょう。こちらでも同じく連歌会を催します」
 忙しいので作るのが難しいと何度も伝えたが、ここでの風習なのでと強引に求められたため、断るのも申し訳ないと思っていたところにホトトギスが鳴いた。
「ホトトギスの鳴き声の行方を辿ると浦の波からだった」

(出雲大社)
出雲大社

参考文献:新編日本古典文学全集48(中世日記紀行集)、島根県の歴史散歩、島根県の地名



細川幽斎さんと島根県を旅しよう!その2(九州道の記・松江市編)

 天正15年(1587年)3月、九州攻めのため豊臣秀吉が進発し細川幽斎の息子・忠興らも従軍したが幽斎は残っていた。しかし在国しているのも気まずいため4月21日に丹後田辺城(京都府舞鶴市)を出発。同月24日には居組(兵庫県美方郡新温泉町居組)に到着し、そこから海路で伯耆を目指した。

(26~27日のルート。実際の道は考慮せず通過した場所を直線で結んでいます)
26日のマップ(御来屋~加賀)

4月26日:廿六日。伯耆国御来屋より舟を出だして、出雪国仁保の関に上がり、見物し待りて、それより磯づたひを行くに、錦の浦といへば、しばし舟をとどめて、
『舟寄する 錦の浦の タ浪の たたむや返る 名残なるらん』
 かやうに口ずさびて、その渡近き加賀(かか)といふ所、漁人の家に泊りぬ。
『あはれにも いまだ乳(ち)をのむ 海士の子の 加賀のあたりや 離れざるらん』

 御来屋(鳥取県大山町御来屋)から舟で仁保の関(島根県松江市美保関町美保関のことだと思われる)に上陸し見物した後、磯辺に沿って行き錦の浦(島根県松江市島根町加賀)で舟を停めて歌を詠んだ。
「舟を寄せた錦の浦の夕波が重なっているのは寄せて返す波の名残だろう」
 その後、近くの加賀の漁人の家に泊まり、そこでも歌を詠んでいる。
「哀れだが、海士の乳飲み子は母(『かか』と加賀を掛けている)の近くを離れられないだろう」

(御来屋港)
御来屋港

(美保関)
美保関港

(加賀の潜戸)
加賀の潜戸

4月27日:廿七日。雨風荒きゆゑに、加賀より舟出成りがたかるべきよしを舟人申し侍れば、さらばいたづらに暮さむももの憂しとて、舟をば浪間を待ち回し侍るべきよし申して、杵築宮見物のため徒にてたどり行く。
 道の程三里ばかり経て、木深くて山のたたずまひただならぬ社あるを見巡りて、神人とおぽえたるに尋ね侍りしに
「これなん佐陀の大社なり。神体は伊奘諾・伊弉冉の尊」
 と教へけるに、しかしか物語りし侍るに、日もたけ雨もいたく降れば、衣あぶらんほどの宿り求めてとどまりぬ。
『千早振る 神の社や 天地(あめつち)と 分ちそめつる 国の御柱』

「天気が荒れているため加賀から舟での移動は難しいです」
 と船頭が言うので、幽斎は無駄に時間を過ごしてもしょうがないと考えて、タイミングの良い時に舟を杵築大社(出雲大社)に回すように命じて自身は徒歩で向かった。
 3里(約12キロ)程、西に進んだとき、ただならぬ雰囲気の神社があったため見て廻り神職の者と思われる人物に尋ねたところ
「ここは佐太神社(島根県松江市鹿島町佐陀宮内)ですよ。御祭神は伊弉諾尊と伊弉冉尊です」
 と教えてくれ様々な物語をしていたら日も暮れて激しい雨が降ってきた。そこで衣服を乾かせる火のある宿を探して佐太に宿泊した。そしてここでの歌も詠んでいる。
「勢いの強力で恐ろしい神を祀る神社だ。天地を分けられた日本の二柱を祀る当社は」

(佐太神社)
佐太神社

参考文献:新編日本古典文学全集48(中世日記紀行集)、島根県の歴史散歩、美保関町誌、島根県の地名、諸国神社 一宮・二宮・三宮