島津家久くんと鳥取・島根を旅しよう!その3(家久君上京日記・鳥取県中西部編)

(鳥取県中西部(伯耆)のルート。実際の道は考慮せず通過した場所を直線で結んでいます)

6月19日:「十九日、夜中に打立候て、あをや之町を通、水無瀬といへる所より舟にて、伯耆乃内大つかといへる所に舟つけ、その町又九郎といへるものゝ所へ一宿」
6月20日:「廿日、朝立、はやなせといへる城有、其町を過行に、藝州衆浅猪那信濃といへるに行合候へハ、わらち銭各々へとらせられ候、我々も得させられ候、其よりはたといへる所を打過しかとも、虫氣出合候て、亦跡のことく歸り、九郎左衛門といへるものゝ所へ一宿」

 家久は夜中に出発し「あをや」(鳥取市青谷町青谷)を通って「水無瀬」(鳥取市青谷町長和瀬)から船で伯耆に向かった。そして翌日には鳥取県西伯郡大山町大山の大山寺に参詣している。
 しかし大山寺までの行程には二つの説がある。
(1)「大つか」(鳥取県東伯郡琴浦町逢束)→「はやなせといへる城」(鳥取県東伯郡琴浦町八橋の八橋城)→「はた」(鳥取県西伯郡大山町羽田井)を経由したという説。
(2)「大つか」(鳥取県西伯郡大山町大塚)→「はやなせといへる城」(不明)→「はた」(鳥取県西伯郡大山町豊房畑)を経由したという説。
 「大山道―鳥取県歴史の道調査報告書第十集―」によると江戸時代、大山寺参詣には5つの道があり(1)が坊領道、(2)は川床道というルートにあたり、どちらも当時からあったと思われる。
 しかし「大つか」が大山町大塚だった場合、近くに「はやなせ」「やなせ」に似た名前の城も地名も見当たらない。それに大山町に上陸するなら、後醍醐天皇や細川幽斎も利用した良港の御来屋港(同町御来屋)だろう。坊領道は御来屋経由が一般的だった。

 結論としては(1)だと私は考えている。
(琴浦町逢束の海岸)

(大山町大塚の海岸)

(八橋城)

 話を本題に戻すと、家久は伯耆の「大つか」(琴浦町逢束)に上陸、八橋城を通り過ぎたところで「藝州衆」(毛利氏に従う者達)の浅猪那信濃という者に「わらち銭」(わらじを買うための金銭。転じて、その程度のわずかな旅費。また、旅立つ人に贈る金銭)を「とらせられ」(渡され)ている。浅猪那信濃は家久が薩摩から来たことを知って「そりゃ遠いところから来なはったな。これでも持っていけ」と言って渡したのだろうか。
 それから「はた」(大山町羽田井)を通り過ぎたところで「虫氣」(腹痛を伴う腹部の病気の総称)のため来た道を戻って宿で休んでいる。

6月21日:「廿一日、打立、未刻に文光坊といへるに立寄やすらひ、軈而大仙へ參、其より行て緒高といへる城有、其町を打過、よなこといへる町ニ着、豫三郎といへるものゝ所に一宿」
 未刻(未の刻。14時頃)、文光坊(大山寺の塔頭の一つか?)に着いて休憩している。前日の腹痛が完治していないのか長い坂道が辛かったのか、ゆっくりと進んでいる感じがする。やがて「大仙」(大山寺)に参詣し「緒高といへる城」(鳥取県米子市尾高の尾高城)の城下町を通り過ぎ、「よなこ」(鳥取県米子市)に到着し宿に泊まった。

(北側から見た大山全景)

(大山寺の本堂)

(尾高城)

(米子市の街並み。中央に見える山が大山)

参考文献:家久君上京日記(五味克夫編)、東京大学資料編纂所所蔵「中務大輔家久公御上京日記」、鳥取県の地名、大山道―鳥取県歴史の道調査報告書第十集―、日本城郭大系、古代中世の因伯の交通、徒然草独歩の写日記



島津家久くんと鳥取・島根を旅しよう!その2(家久君上京日記・鳥取県東部編)

 1575年2月、鹿児島県の串木野市を出発した島津家久は福岡県の門司に行き、そこから山陽側を経由して上洛。明智光秀に会い伊勢神宮や愛宕山を参詣するという貴重な体験をした後、6月には山陰経由での帰路についた。

(鳥取県東部(因幡)のルート。実際の道は考慮せず通過した場所を直線で結んでいる)

6月16日:「十六日、ひほの山とて大山を越、つくハねといへる村なれと、しつのまかなひもなく、其辺の仏にかり枕」
 但馬(兵庫県北部)から因幡(鳥取県東部)に入ろうとした家久だがいきなりの難関にぶち当たっている。「ひほ(ひょう)の山」とは氷ノ山(ひょうのせん)のことで、標高1500メートルもある山だ。氷ノ山越のルートは標高1300メートルくらいだが、それでも難儀したことであろう。
 無事、因幡に入り「つくハねといへる村」(鳥取県八頭郡若桜町つく米)に着くが何もないので野宿をしている。

(氷ノ山越と赤倉山。神戸観光壁紙写真集さんからお借りしました)

6月17日:「十七日、若狭の町を通けるに、其城の有主、二三日前ニ山中鹿之助謀略を以生取、若狭の城を知行し、さし籠らるゝ人數に行合候、其より行てたち井殿の城有、亦半廻の城とて有、軈而石井大膳介峯入ニとて、山法師支度にて出たゝるゝ所に行合、彼人亦跡のことく歸り、舟岡といへる町にて、夜終いにしへの事共語、宿助左衛門」
 「若狭の町」(鳥取県八頭郡若桜町若桜)にあった「其城」(若桜鬼ヶ城)の「有主」(毛利氏に味方していた矢部氏)は、2~3日前に山中鹿介の謀略で生け捕られ城を奪われていた。家久が若桜を通った際、「さし籠らるゝ人數」(生け捕った連中。鹿介ら尼子再興軍の兵)とすれ違っている。

(若桜鬼ヶ城)

(若桜鬼ヶ城から見た南西側の景色。家久は左側のつく米方面から来ている)

(若桜駅前の通り。写真では分かりづらいが左側に鬼ヶ城がある)

 若桜を過ぎた家久は「たち井殿」(丹比(たんぴ)殿)の城(場所は不明)や「半廻の城」(場所は不明)を通り過ぎると、石井大膳介という者が山で修行するため山法師の準備をしていた。そして「舟岡といへる町」(鳥取県八頭郡八頭町船岡)に着いて、(大膳介と?)夜通し昔話をしている。

6月18日:「十八日朝、大膳亮へ暇乞して行に、右の方に因幡山とて松山有、その前ニとつとり山とて城有、亦左の方に遠くひよとり尾とて城有、さて吉岡の城、同其町を通るに出湯有、各々入、其より行てけたの郡下坂本の小庵に一宿」

 大膳介に別れを告げた家久は北上し、右に「因幡山」(鳥取市国府町にある標高249メートルの稲葉山)、正面に「とつとり山とて城」(鳥取市東町の鳥取城)、左に「ひよとり尾とて城」(鳥取市玉津の鵯尾城)の見える場所に出た。どこから見た景色か正確には分からないが若桜街道沿いの鳥取市紙子谷から半径一キロ圏内だと思われる。

(鳥取城)

 そして「吉岡の城」(吉岡将監の城。鳥取市六反田にあった丸山城のこと)の城下町にある「出湯」(鳥取市吉岡温泉町の吉岡温泉)に入り旅の疲れを癒している。一風呂浴びた家久は「けたの郡」(気多郡。鳥取市の西部地域)の下坂本(鳥取県鳥取市気高町下坂本)まで移動し、小庵(粗末な小屋や草ぶきの小さな家のこと)に泊まっている。

(丸山城や吉岡温泉の北にある湖山池。家久くんを描いて下さったコヤマさんとは関係が無い…はず)

参考文献:家久君上京日記(五味克夫編)、東京大学資料編纂所所蔵「中務大輔家久公御上京日記」、やぶ市観光協会のサイト、鳥取県の地名、全国国衆ガイド、日本城郭大系、徒然草独歩の写日記


島津家久くんと鳥取・島根を旅しよう!その1(家久君上京日記・序章)

 「家久君上京日記(中務大輔家久公御上京日記)」は薩摩の戦国大名だった島津義久の弟・家久が伊勢神宮を参詣するため1575年2月に薩摩を出発し7月に帰国した旅の日記である。その中でも私の地元である鳥取県(因幡・伯耆)と島根県(出雲・石見)の行程を辿ってみる。
 すでに徒然草独歩さんが「徒然草独歩の写日記」というブログで詳しく紹介されているが、自分なりに考察してみた。お付き合い下さい。

・島津家久という人物
 生没年:1547~1587年。島津貴久の四男。兄・義久のため各地を転戦、龍造寺隆信との沖田畷の戦いや長宗我部元親など四国連合軍との戸次川の戦いでの勝利は良く知られる。九州攻め後の1587年6月5日に急死した。官途は中務大輔。上洛した時の年齢は数えで29歳だった。

・1575年当時の鳥取県と島根県
 安芸の毛利輝元が大半を支配していた。翌年には輝元と織田信長との全面戦争が始まるが、この頃は因幡で山中鹿介らが尼子再興のため戦っていた程度で他は平穏だった。

(鳥取県と島根県の位置)

(今回の旅のイメージキャラクター・家久くん。高橋コヤマさんからの頂き物です)

参考文献:家久君上京日記(五味克夫編)、東京大学資料編纂所所蔵「中務大輔家久公御上京日記」、戦国時代人物事典、山中鹿介のすべて、鳥取県の歴史散歩、島根県の歴史散歩、徒然草独歩の写日記