尼子再興戦と伯耆 その5(戦いの経緯4)

○再興軍対杉原盛重
 1570年の間に尼子再興軍は出雲各地で敗北し城のほとんどを失う。そこで勢力を保っていた伯耆を完全に制圧し、西伯耆~島根半島(再興軍の拠点)の美保湾ラインから反撃を試みようとした。
 1571年2月6日、末吉城下の国延(西伯郡大山町国信)で尼子再興軍が杉原盛重と戦っている。翌7日、再興軍の平野久基が美保関から末吉城下の上万原(西伯郡大山町上萬)に上陸し淀江城などの兵を集め尾高城に攻め込もうとしたが、盛重によって撃退され久基は戦死している。

(現在の国信地区)

(国信神社。国延の戦いの際、兵火で焼失したという)

(現在の上萬地区)


 同年3月18日、再興軍の羽倉孫兵衛元陰は飯山城(米子市久米町)の城下を焼き尾高城に迫った。しかしここでも盛重の反撃にあって孫兵衛は戦死している。
 この頃、伯耆攻略のため鹿介が末吉城に入ったと思われる。

(西伯郡日吉津村富吉に建つ羽倉地蔵。孫兵衛の供養塔と伝わる)

(米子市尾高の観音寺に建つ杉原盛重・元盛父子の墓)


 同時期、日野郡でも備中・備後との国境近くの松本(日野郡日南町下石見)・六坂(日野郡日南町三吉)などで戦いが繰り広げられていた。

(現在の下石見地区)


○参考文献など
・山中鹿介のすべて
・鳥取県史ブックレット 尼子氏と戦国時代の鳥取
・大山町誌
・雲陽軍実記
・山陰古戦史
・日吉津村誌 上巻



尼子再興戦と伯耆 その4(戦いの経緯3)

○毛利軍の反撃
 伯耆では順調だった尼子再興軍だが、出雲では月山富田城を落とすことができないという誤算が生じていた。それでも戦いを有利に進めていたが、1570年2月九州から引き返してきた毛利軍の主力に布部山の戦いで敗北。勢いを失っていく。
 この頃、伯耆でも尾高城主・杉原盛重と羽衣石城主・南条宗勝が城に戻り体勢を立て直そうとしていた。因幡も武田高信が反撃に転じている。

(布部山)

 1570年の伯耆の動きはよく分からない。前述した通り3月以降に八橋城と岩倉城を尼子再興軍が落とし、それを奪回しようと毛利軍が攻めているのが確認できる。

○参考文献など
・山中鹿介のすべて
・鳥取県史ブックレット 尼子氏と戦国時代の鳥取
・因伯の戦国城郭 通史編



尼子再興戦と伯耆 その3(戦いの経緯2)

○東伯耆への侵攻
 尼子再興軍は西伯耆に続いて東伯耆(倉吉市・東伯郡と西伯郡の一部)にも侵攻。1570年3月には八橋城(東伯郡琴浦町八橋)や岩倉城(倉吉市岩倉)を攻撃しほどなく落城させている。毛利氏が伯耆で落城していないことを確認していたのは前述の尾高城・手間要害と羽衣石城(東伯郡湯梨浜町羽衣石)のみであった。
 毛利氏はこの状況を打破するため因幡からの攻撃を計画。鳥取城主・武田高信と鹿野城番・湯原元綱に援軍を要請したが、因幡でも尼子再興軍に味方する者達が蜂起し一時は「雲州至同意雖企逆乱候“鳥取一城”之儀老若堅固申談方々相勤候(『真継文書』)」とあるほど追い詰められ援軍どころではなかった。

(八橋城。伯耆の海沿いのほぼ中央に位置する要害だった)

(岩倉城全景。伯耆と美作を結ぶ要衝の地にあった。一説には再興軍に同調した美作や備前の浪人に落とされたという)

(羽衣石城遠景。毛利氏に従っていた南条氏の居城である)

 1569年10月~11月、勝久は東伯耆でも尼子氏に所縁のある光徳寺(東伯郡琴浦町公文)・定光寺(倉吉市和田)に安堵状を発行している。

(光徳寺の山門。勝久の高祖父・清定が寄進している)

(定光寺の本堂。尼子経久の肖像画を所蔵していることで知られる)


○参考文献など
・鳥取県史ブックレット 尼子氏と戦国時代の鳥取
・因伯の戦国城郭 通史編
・鳥取県の歴史散歩
・会見町史 続編