初心者にもわかる天皇125代

 メディアミックスから発売された「初心者にもわかる天皇125代」に私の提供した承久の乱合戦供養塔・後醍醐天皇の御腰掛の岩の写真が掲載されております。
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尼子再興戦と伯耆 その7(残された人々)

 伯耆から尼子勝久や山中鹿介らは去ったが、そのまま残った者達もいた。
 尼子の旧臣・宮田玄達は元亀年間(1570~1573年)、中尾村(西伯郡大山町中尾)に住み田宮と姓を変え医者を生業として尼子再興の機会を待ったという。しかしその機会は訪れなかったため、田宮氏はそのまま住み着いたと伝わる。

(西伯郡大山町塩津にある浄福寺跡。田宮氏が建立したといわれ、今でも同氏の墓などが建っている)

 他にも尼子義久の物頭・山岡宇右衛門の子孫が上市村(西伯郡大山町上市)で医者を生業にしており、尼子倫久の子・倫之亮の子孫は曲村(東伯郡北栄町曲)に住み谷本姓を名乗っている。
 これらの家が本当に尼子の旧臣だったかどうかは不明だが、再興軍に協力しそのまま伯耆に残った旧臣が少なからずいたと思われる。

○参考文献など
・新修 中山町史 下巻
・新修 米子市史 第一巻
 以上です。お付き合い頂きありがとうございました。



尼子再興戦と伯耆 その6(戦いの経緯5)

○再興軍、伯耆より去る
 1571年4月下旬頃、戦況はますます尼子再興軍の不利になる。因幡での争乱が一段落し救援に駆け付けた湯原元綱が山田重直と共に岩倉城を落としている。
 同年6月14日、毛利元就が病のため死去。吉川元春は父の弔い合戦として同年7月西伯耆に進撃し、武田高信・南条宗勝の両名には東伯耆への出兵を要請している。元春は当初、大山の経悟院を攻めると広言していたが、途中で山中鹿介の籠もる末吉城に攻撃目標を変更。油断していた鹿介は脱出が不可能なほど末吉城を厳重に包囲され、8月に降伏している。
 その後、元春は八橋城や伯耆の諸城も落として、伯耆を取り返している。

(現在の大山町末吉と国信の間を流れている川。末吉城の東の堀だった船いそ川の辺りか?)

(日本海から見た末吉城。昔はこの辺りに谷川が流れており堀の役割をしていた。現在でも末吉の東西は小高い丘となっている。フラットになっていた南側には深い空堀があったという)

(米子市淀江町福岡にある伯耆寺内城跡。ここも元春によって奪回されている)


 同月には尼子勝久の籠もる真山城が落とされ出雲から撤退している。鹿介も捕らわれていた尾高城から脱出し尼子再興軍は因幡から出雲を目指すことになるが、二度と伯耆の地を踏むことはなかった。

○参考文献など
・鳥取県史ブックレット 尼子氏と戦国時代の鳥取
・鳥取県史 中世
・因伯の戦国城郭 通史編
・新修 米子市史 第一巻
・大山町誌