2014年大坂の陣巡り(2日目その2:毛利勝永座談会)

 汗を掻いたので一旦ホテルに戻って風呂に入った。その後に座談会があるのだが疲れて部屋で寝そうになった…。
 時間になったため座談会の会場に移動。十数名が集まり、主催者の挨拶と参加者の自己紹介が終わると発表者の一人目・Kさんの話が始まる。内容は史料から大坂落城の様子を探るというもの。

 いきなりレベルが高い…。自分がいるのが場違いなくらいで、ただ聞いているだけしかできなかった。
 その後は江戸時代に描かれた天王寺の布陣図をもとに戦況がどのようなものであったのかの説明。毛利勝永の陣の前には堀切があって容易に攻め込めないようになっていたらしい。そこからはみんなで議論が始まり、
「勝永は鉄砲で防戦していたが攻め込む好機だと考え突っ込んだ」
「幸村が真っ正面に進むのは無理だから迂回をして進んだ」
「思っていたよりも徳川軍は兵を展開出来なかったのではないか」
 などの意見が出た。

 その後はSさんが四天王寺は大坂冬の陣の際に焼かれたのではないかという話をされた。そして勝永の旧臣はどのくらい大坂城に入ったのか、勝永の性格はどうだったのか、などどう思われるかという議題を提示された。
 盛親好きが自分を合わせて二人いたので比較のためにちょろっと話をふられた。まあ自分が話せたのはそのくらいかな…。基本、聞くだけで精一杯でした。でも、自分みたいに知識のない人間にでも知識のある人が上から目線で話すわけでも無く、終始楽しくそして勉強になる座談会だった。来年は勝永鬼神の活躍から400年なので、また座談会があれば参加したい。史跡巡りは…大阪じゃなくて高知か北九州でした方がいいかも。

 そしてほとんどメンバーがホテルに移動し遅くまで戦国時代のことを中心に話をしていた。ここでもKさんの知識量が尋常ではなかった…。結局、夜の1時半頃まで話していた。


2014年大坂の陣巡り(2日目その1:四天王寺南大門・毛利勝永陣所跡)

 2014年5月31日(土)、難波駅近くのホテルを出て八尾市に向かう。途中、目的地が変わったり荷物を預けるためにあっちこっちに移動したりして時間をロスしたが割愛。
 10時半頃、近鉄の服部川駅に到着。ここで『毛利勝永座談会と見学会』のメンバーと合流し、企画展の「大坂の陣と常光寺」を見るため八尾市歴史民俗資料館に向かう。
 この日も無茶苦茶暑くてみんな辛そうだった。

(資料館に到着。内容は残っている史料の関係から藤堂家寄りだった)


 食事をした後、四天王寺の南大門に向かう。

(南大門。天王寺・岡山の戦い毛利勝永がここで陣を構え徳川軍を蹴散らしている)

(南大門の南側の風景。こちら側に勝永は進撃していったのでしょう)


 それから大阪市中央区東高麗橋に移動する。

(大坂冬の陣でこの辺りが勝永の持ち場だったらしい。写真の奥は大阪大林ビル)

(上記の写真を撮影した今橋から川を撮影。右側には徳川軍が布陣していた)


 これで史跡巡りは終了。やはり人数が多いと行ける数が限られてくるな…。いやもともと勝永関係で行くところが少ないだけか。

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2014年大坂の陣巡り(1日目その3:本町橋・心眼寺・薄田兼相の墓)

 大阪城から大阪市中央区本町橋に移動。本町橋といえば誰もが知っている本町橋の夜襲戦の舞台です。塙団右衛門、人気者だからね。

(現在の本町橋)


 そこから大阪市天王寺区餌差町に移動。
(心眼寺の山門に到着。ここは真田丸の攻防の際に真田丸として使われ、その後1622年に真田幸村大助父子の菩提を弔うため当寺が建てられた)

(山門の横には真田幸村出丸城跡の碑が建っている)

(扉にあった六文銭)

(坂本龍馬を暗殺したという説のある桂早之助と渡邊吉太郎の墓)

(本堂)

(まんなおし地蔵。「まん」は「間」のことで、「まんがわるい」は「タイミングが悪い」や「運が悪い」などの意味で山陰では使われるので、大阪でも似たような意味だと思われる。その「まん」、運などを直してくれるというご利益がある)


 ちょっとだけ移動して同じ天王寺区生玉寺町に到着。この辺りは寺町のようだ。

(増福寺。薄田兼相の墓がある)

(山門の横にはしっかりと碑がある。ちなみに山門を潜るとセンサーが鳴るが「お墓参りの方は入って頂いても結構です」みたいな案内があったので問題ありません)

(兼相の墓と本堂。墓は200回忌(1814年)に子孫の薄田兼実が建てている)


 夕方になったので史跡巡りはこれでお終い。動く体力がほとんど残っていなかったためホテルにチェックインしてゴロゴロしていた。

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