長福寺(大久保一族の墓)

住所:愛知県岡崎市竜泉寺町前田9

 かつては天台宗だったが、1318年に日蓮の孫弟子・日印が長福寺に立ち寄った際、美濃の国主・土岐頼直が土地を寄進して日印を援助したため、住職となり日蓮宗に改宗した。頼直の娘が徳川譜代の家臣である大久保家の先祖・宇都宮泰藤に嫁いでおり、泰藤が病気の際に長福寺に参詣している。1547年、大久保(宇津)忠茂が当寺に葬られてから大久保家の菩提寺となった。

(山門)

(本堂)

(お堂。何を祀っているのか分からなかった)

(三河山中城攻めで活躍した大久保忠茂の墓)

(忠茂の三男・大久保忠員の墓。蟹江七本槍の一人として名を馳せた。忠世・忠佐・忠教らの父)

(三河物語の著者・大久保彦左衛門忠教の墓)

(忠茂の子・大久保忠俊の墓。蟹江七本槍の一人)

(松平家の仕えた久世広長の墓)

感想:10年近く前に行った時にお寺がこぢんまりとしていた記憶があって、人を案内する時もお墓しか行ってなかった・・・。今まで案内した皆さん、ごめんなさい。




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助光城(土佐福留氏発祥地)

住所:名古屋市中川区助光一丁目

 織田信長の家臣・福留左近将監の城。長宗我部氏の家臣として勇名を馳せた福留一族は当城の出身といわれている。現在は土之宮神明社が建ち遺構は残っていない。

(土之宮神明社)

(神社の一角に建つ福留将監古城跡の碑)

感想:土佐福留氏の初代は平氏に従って屋島の戦いに参加したという伝承はありますが、それ以前の伝承はないようです。ですので、助光城の福留氏と同族というのはあくまで推測です。




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2012年四国史跡巡り(6日目その5:白峯寺・与島)

49.白峯寺・・・香川県坂出市青海町2635。四国八十八ヶ所霊場・第81番札所。五色山の白峯に建つ寺。815年、空海が当山に登った際に如意宝珠を埋めたのが始まりといわれる(これは土地の神に許可をもらうための儀式、則ち地鎮祭だったと解釈されている)。その後、空海の甥(姪の子とも)・円珍の前に土地の神が現れ仏法を興隆するようとのご神託があったため千手観音像を彫像し本尊とした。
 保元の乱で讃岐に流された崇徳天皇が1164年に崩御されると白峯の山頂に御陵が作られる。その後、兵火にあって一時衰退したが讃岐の大名となった生駒氏・松平氏の援助で再建している。
感想:ちょうど大河ドラマがやっていたので来てみた。

(七棟門)

(香川県指定有形文化財・客殿)

(護摩堂。お土産などが売っていた)

(崇徳天皇の廟所・頓証寺殿。この後ろに崇徳天皇の御陵がある)

(相模坊大権現。相模の大山にいたが、いつしか讃岐に移り住み崇徳天皇の守護神となった。夕方に豆腐を街まで買いに行くように言われた小僧を哀れに思った相模坊が京都まで運んで帰ってきたという伝説がある。地元では「さがんぼさん」と呼ばれている)

(西行の像。西行が四国で修行した際に当地に立ち寄ったところ、霊廟に崇徳天皇が現れ「松山や 浪に流れてこし船の やがて空しくなりにけるかな」と詠んだ。そこで西行は涙を流しながら「よしや君 昔の玉の床とても かゝらん後は何にかはせむ」と詩を返している)

(源頼朝寄進の石灯籠。実際は鎌倉時代後期のものらしい)

(本堂。ここも長宗我部元親の兵火によって焼かれたらしい。寺を焼くためにこんな高いところまで登ってくるとはご苦労なことだ。この本堂まではかなりの階段を登ってこないといけないため、お歳を召した方はきつそうだった)

(大師堂)


 これで本日、というか今回の史跡巡りはお終いTT 近くの瀬戸大橋に乗った。でも、帰る前に1つ寄りたいところが・・・。
・与島パーキングエリア・・・香川県坂出市与島町587。仮面ライダーBLACK RXの第33話「瀬戸大橋の大決戦」で、敵のクライシス帝国がここから出向していた船に爆弾を載せ瀬戸大橋を爆破し日本から孤立させクライシスランドを建設しようとした。馬鹿馬鹿しくも回りくどすぎる計画である。
 まあ、そんなわけですっかり変わってしまったとはいえ、ロケ地となったここに一度訪れてみたかったのだ。

(坂出方面を望む。橋の先に見えるのが讃岐富士・飯野山)

(宇多津・丸亀方面を望む。右の島が牛島)


 今度こそ終了。帰るのが面倒で一瞬そのまま北上して実家の鳥取県に帰省しようと思ったけど、仕事があるので休憩しながら愛知県に戻った。

今回の旅の感想:長宗我部元親・バリィさん・八十八ヶ所と興味のあるものを満喫してきた。やっぱりいいよ、四国。食べ物旨いし見るところ多いし。また一年後に来るよ!

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