2011年冬香川県史跡巡り(1日目その4:喜岡城・讃岐一宮城・讃岐鷲山城)

10.喜岡城(高松城)・・・高松市高松町1727ー5。1335年に高松頼重が築城。しかし同年、足利尊氏に味方した細川定禅と戦い敗走し定禅に城を奪われた。のちに香西氏に属した高松氏の手に戻っている。
 香西佳清が長宗我部元親に降伏すると高松頼邑も長宗我部軍の一員となる。1583年に仙石秀久が攻めて来た際には撃退に成功したが、四国征伐で讃岐方面軍に攻められ落城。現在は喜岡寺となっている。
感想:3年半前の四国一周旅行の際にも来たのに再訪したのは唐人弾正片山志摩の墓を取るため。当時は誰なのか知らなくて高松氏の家臣だと思っていました・・・ーー;

(山門)

(左から唐人弾正・片山志摩・高松頼邑の墓)

(城址碑)

(寺の裏に残る土塁)


11.讃岐一宮城・・・高松市一宮町286。讃岐一宮・田村神社の大宮司だった一宮氏の居城。一宮氏は香川親和の讃岐侵攻の際に香西氏に属して伊勢馬場の戦いに参加している。城は現在の田村神社の西北にあったという。
感想:東かがわ市にある與田寺と同じ雰囲気がする・・・。こうなんというか・・・まあいいや、やめておこう。実家で岡山のチャンネルを見たら「初詣は田村神社で!」みたいなCMをやっていたのが印象に残っている。

(鳥居がど~ん。さすが讃岐一宮)

(そして鳥居を潜ると布袋様)

(本殿に向かう途中にいる八咫烏)

(本殿)

(龍)


12.讃岐鷲山城・・・高松市国分寺町柏原。1368年に北朝方として活躍した藤原(新名)光業が築城。長宗我部元親が讃岐に侵攻すると新名氏は抵抗したが衆寡敵せず降伏している。その後、新名氏は元親に従ったが、要所の鷲山城を欲した元親によって誘殺された。
感想:遺構が無さそうだったので遠景を写して終了。

(鷲山城であっているはず)

 ここで本日の予定は終了したのだが、まだ夕食には早かったため、観光に行く。

13.満濃池・・・仲多度郡まんのう町神野。821年、嵯峨天皇の勅許により空海が住民たちを指揮し僅か3ヶ月で完成させた日本一のため池。その後、武士の時代になると荒廃し池の中に村が作られたが、1625年に西島之友(八兵衛)が高松藩主・生駒正俊の命で復旧に着手し1631年に完成している。
感想:ちらっと見た後、疲れて寝てしまった・・・。池は空海が来る前からあったが、完成させたのは空海らしい。

(変な表現だが、写真にやる気が見られない。「はい、撮りました」みたいな感じがする)


 疲れも取れたし、いい時間になったので夕食を食べに行く。夜も香川県の名物を食す。

(お馴染み、一鶴)

(今回はおやどりに挑戦。歯ごたえのある大人の味。ひなどりの方が柔らかくて食べやすいけど、俺はおやどりの方が好きかな)

 今日はこれにて終了。そのまま帰ろうかと思ったけどせっかく来たのと疲れでホテルに泊まった。明日も史跡巡りです。

本日の感想:詰め込み過ぎて疲れた・・・。

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2011年冬香川県史跡巡り(1日目その3:石田城・国弘城・植田城)

7.讃岐石田城・・・さぬき市寒川町石田東甲761。築城年代は不明。長宗我部元親の侵攻時には安富元綱(細川則弘とも)が城主だったが落とされている。現在は本丸跡が光明寺になっている。
感想:寺の周りには土塁や堀らしきものがあった。

(光明寺本堂)

(縄張図)
縄張図

8.国弘城・・・さぬき市寒川町石田1928。応永年間(1394~1428年)に細川助弘が築城。末裔の国弘は織田信長・豊臣秀吉に仕えたという。1616年2月、真田幸村がここに逃れ細川氏に2年ほど世話になっている。幸村の息子・之親の娘は、国弘の孫を婿として迎え、孫は真田姓を名乗るようになったと伝わっている。遺構はない。
感想:ここは場所が分からずとにかく探し回った。近所の方に一緒に探してもらい、やっと見つかったよ・・・。お名前を聞くのを忘れましたが、本当にありがとうございました!
 細川氏は途中から国弘姓を名乗ったようだが、いつ頃からなのか不明。

(城址碑1。真田六紋会という団体が建てたらしい)

(城址碑2。後ろに墓らしきものが見える)

(真田氏が建てた神社だったと思う。城と関係があると近所の方が説明されていたのは覚えている。国弘城の南にある)

(縄張図)
縄張図


9.植田城(戸田城)・・・高松市東植田町本村。築城年代は不明。植田氏の居城だったが、長宗我部元親に攻められ落城した。その後、戸波親武が城主となったが、四国征伐後に退去したため廃城となる。空堀・郭などの遺構が残っている。
感想:四国征伐の際に元親がこの城に讃岐方面軍を引きつけて殲滅しようとしたが、黒田如水に作戦を見抜かれたことで知られている。
 場所は分かりづらいが、近くの城集会所を目指して行くと良い。

(本丸跡)

(堀切)

(堀跡)

(植田氏を祀る神社)

(縄張図)
縄張図


 お腹が空いたのでここで休憩。昼食はもちろん讃岐うどん。

(行ったのは四国村にある『うどんのわら家』)

(ぶっかけうどん)

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2011年冬香川県史跡巡り(1日目その2:六車宗旦の墓・釈王寺・雨滝城)

4.六車宗旦の墓・・・東かがわ市川東。宗旦は東讃を治めていた安富氏の重臣。長宗我部元親が讃岐に侵攻すると主君・安富盛定は小豆島に逃亡するが、宗旦は居城・雨滝城に残る。しかし抗しきれず降伏。そのまま在城を許されるが、秀吉の四国征伐で下野した。
感想:事前に準備をしている時に「お墓の場所、見たことがあるなあ」と思っていたら、梶原景辰の墓の横じゃないか・・・。よく調べていなかったために同じ場所に二度も行くことになってしまった。

(宗旦の墓。左にちらっと写っているのが景辰の墓)


5.釈王寺・・・東かがわ市大谷329-2。真言宗。さぬき三十三観音霊場第五番。長宗我部元親が東讃に侵攻する直前、当寺の住職が元親の西讃での悪行を伝え東讃の諸将に降伏を勧めている。
(仁王門)

(本堂)


6.雨滝城・・・さぬき市大川町富田中。長禄年間(1457年~1460年)に安富氏が築城。以来120年の間、安富氏の居城であったが、1572年に安富盛定が虎丸城に移ると重臣・六車宗旦が入っている。四国征伐後に廃城になったと思われる。
感想:城内に車で入ったが、入り口を通りすぎてしまい諦めた。道が狭くてUターン出来るような状況じゃなかったし・・・。

(雨滝城遠景)

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