2011年冬出雲史跡巡り(冬の宍道湖の夕日)

 2011年12月31日(土)、昨日まで香川県の史跡巡りをしていたので疲れていたけど、松江市まで出かけて宍道湖の夕陽を見に行った。山陰に戻ると見たくなるんだよね。今回は冬にしては珍しく晴れていた。


 冬の宍道湖を満喫すると家に戻って父親の台湾土産の酒を飲んだ。

(二日酔いしない爽やかさが特徴らしい。確かにあまり味も臭いもしない癖のない酒で翌日に残るようなことがなかった。説明文が口語体と文語体が混じっていた上に旧字体も使われており、なかなかユニークだった)

 その後、就寝。明日からは家から出ない。出かけるのは好きだが、人が多いところは嫌いじゃ。



2011年冬香川県史跡巡り(2日目その2:勝賀城・芝山城)

17.勝賀城・・・高松市鬼無町佐料。承久年間(1219~1222年)、香西資村によって築城された。平時は麓の佐料城におり、勝賀城を詰の城としていた。十八代城主・佳清の時に長宗我部元親の讃岐侵攻が間近になったため、居城を藤尾城に移している。土塁・空堀などの遺構がある。
感想:2年前に来た時は時間が無くて登れなかったので今回は張り切って挑戦してみた。平地の多い香川県で標高364メートルはきつい・・・。道はあるものの本丸附近で急勾配になり滑りやすく捕まる木などもなかったため、登るよりも降りる方がきつかった。
 本丸は良好な状態で遺構が残っていた。

(本丸近くに残る土塁)

(本丸にある碑と祠)

(本丸全景。なぜかあった大量の丸太)

(本丸の土塁)

(登り口附近から見た瀬戸内海。右が屋島。左は女木島だと思う。海運を意識して築城されたのが分かる)

(勝賀城遠景)

18.芝山城・・・高松市香西北町。寛元年間(1243~1247年)に海上の警備のため、香西氏が築城し家臣の渡辺氏に守らせた。現在は埋め立てられて陸地となっているが、当時は島だった。1583年、小西行長が豊臣秀吉の使者としてやってきた際に、城主・渡辺市之丞は「すでに長宗我部を大将としている(この時、香西氏はすでに元親に降伏していた)。話を承る筋はない」と言って大砲で追い返している。 現在は芝山神社になっている。
感想:本殿にハエが多かった・・・。

(入り口)

(鳥居)

(芝山城から瀬戸内海を望む)

(勝賀城から見た芝山城。中央の丘が城趾)

 ここで昼食。昨日に続き讃岐うどんにした。

(いろんなうどん屋に行ったが混んでいたので、チェーン店の「まるいち」にした)

(しっぽくうどんと揚げ物。うどん屋に春巻きがあるのは初めて見た)

 そのあと、高松の商店街に行って、くつわ堂の「長宗我部元親 オリジナル瓦せんべい」を買った。せんべいに家紋が入っていた。しかし香川県が本社なのに元親のせんべいっていうのも微妙だな・・・。ちなみに通販で買えます。

(瓦せんべい)

 あとで食べたが噂ほど硬くなかった。せんべいってこんなもんじゃない?
 他にも廻る予定の史跡があったけど、疲れたのでやめた。高松駅前でゆっくりした後、岡山市に向かう。

(マリンライナー。名前は知っていたけど初めて乗車した。僅か1時間で岡山駅に着く。瀬戸大橋から見る景色が綺麗だった)

 そして岡山駅に着くとバスに乗り換えて米子に向かう。さすがに中国山脈は雪が積もっていた。

(蒜山高原サービスエリア)

 特に大幅な遅れも無く、無事に米子に到着。実家に戻った。

本日の感想:勝賀城で時間と体力を奪われた・・・。しかも疲れのせいで遺構の取り忘れも多かったし。ここのところ運動不足なので鍛え直さないと。

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2011年冬香川県史跡巡り(2日目その1:三谷八幡宮・三谷城・三谷氏墓所)

 2011年12月30日(金)、高松市のホテルで目覚める。今日は疲れが取れていないので適当に史跡巡りをする。

14.三谷八幡宮・・・高松市三谷町。平安時代に八幡原の地の鬼門を守るために建てられた。永享年間(1429~1441年)頃、細川氏に仕えていた三谷城主・三谷景晴は禁裏に飛来した化鳥を射落とし兵庫頭に任ぜられた。景晴はその時の矢を当社に寄進している。1628年、三郎池の改修のため現在地に移転された。

(鳥居)

(拝殿)

15.三谷城・・・高松市三谷町竹林。植田氏の一族・三谷氏の居城。西に県下三番目のため池・三郎池があり、濠の役割を果たしていたと思われる(当時の三郎池の規模は不明)。三谷氏は寒川氏・香西氏に攻められながらも撃退し勢力を保ったが、大軍を擁した長宗我部元親には敵わず落城している。
感想:遺構がないため「ここら辺だろうな」と思って適当に撮った。

(城趾・・・だと思う)

16.三谷氏墓所・・・高松市三谷町。三谷景晴と息子・景久の墓がある。

(三谷氏墓所の碑。右が景晴(兵庫頭)の顕彰碑で、左が墓所)

(右が景晴、左が景久だと思われる)

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