四国・山陰史跡巡り2011(1日目前半:森権平の墓・白鳥神社・虎丸城)

 2011年4月29日(金)、讃岐うどんを食べるために香川県に行った。

1.権平庵・・・東かがわ市伊座800-2。1583年、引田の戦いに阿波の水軍・森氏の一族・森権平が仙石秀久の配下として参加。長宗我部元親軍との戦いで奮戦するが深追いし過ぎて、最期は湿田に馬の足がとられ討ち取られた。その後、墓と石塔を建て弔われる。いつしか足の病を治すとして祀られるようになった。
感想:この辺りでは有名な庵らしい。

(森権平を祀る権平庵)

(森権平の墓。権平庵の道を挟んで向かい側の高台にある)


2.白鳥神社・・・東かがわ市松原69。祭神・日本武尊。源義経が劣勢の時に白鳥の神に祈ったところ、彼方の空から白羽が舞い降りたため義経の士気が上がり屋島の戦いに勝利したという。1664年、高松藩主・松平頼重が修築している。
感想:長束正家の孫・吉清が京都から移り住んで、ここの禰宜になったと聞いたので来てみた。今でも近所に長束さんがお住まいらしい(お話は聴いていない)。
 白鳥神社は讃岐の東にあるため、江戸時代は阿波に対しての支城の役目を果たしていたらしい。

(鳥居)

(拝殿。予想していたより敷地が広い。境内は四万坪弱あるらしい)

(神社の裏にある御山。日本一低い山らしい)

(御山登山証明書)


3.梶原景辰の墓・・・東かがわ市川東。景辰は播磨高砂城主だったが城を落とされ讃岐の安富氏を頼る。1583年、安富氏が長宗我部元親に攻められた際、討ち死にしている。
感想:住宅街の一角にあり、分かりづらかった。

(梶原観音と梶原景辰の墓)

(墓の敷地内にあった亥子神社。景辰との関係は不明)


 ここまではついでのようなもの。次の史跡に行くために東かがわ市に来たのである。それは元親も落とせなかった讃岐虎丸城。いつも登り口が分からなくて諦めていたが、今回は地元の方に登り口を教えていただいたので大丈夫。

4.虎丸城・・・東かがわ市与田山。標高417メートルの虎丸山に築かれた城。築城年代は不明。寒川氏・安富氏・十河存保が城主となっている。
感想:この城が長宗我部軍によって落ちたかどうかで議論されているらしいが、登ってみると力攻めは無理だと感じた。兵糧攻めなら可能だが。
 白鳥神社で教えていただいたのだが、地元の高校(市内には三本松高校しかないからそこだと思う)の生徒は創立記念日に登らせてもらえるらしい。生徒はまったく嬉しくないと思うんだが・・・。
 遺構は良く分からなかった。

(入り口から15分ほど歩いたところに流れていた小川。ここから道が狭くなる)

(こんな道が続く)

(二の壇だったと思う。忘れた)

(9合目から山頂方面を望む。写真だと分かりづらいが急斜面でロープを伝って登らないといけない)

(入り口から一時間で山頂に到着。ただの登山だった・・・)

(山頂から見た瀬戸内海。場所は・・・良く分かりません)

 また一時間かけて登山口まで降りた。昨日の雨で湿っているところがあり、そこで一回滑った。
「汚れてもいい格好で行った方がいいよ」
 地元の人の助言は聞いておくものだ。


 ここで東かがわ市は終了。
前半の感想:降りる時、狭い道で家族連れと会ったので少し広い場所で待っていたら5歳くらいの子が一言。
「なんしょんな~」
 おお、出た。代表的な讃岐弁・・・。しかし待っているのに「なんしょんな~」って。吹き出してしまった。

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内久保砦(小牧・長久手の戦いで蜂屋頼隆・金森長近が守備)

住所:愛知県犬山市字内久保

 小牧・長久手の戦いの際、羽柴秀吉軍が築いた砦。蜂屋頼隆・金森長近が守備している。三明神社の辺りが砦跡と推測されている。遺構はない。

(三明神社)


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外久保砦(小牧・長久手の戦いでの砦)

住所:愛知県小牧市大字久保一色

 小牧・長久手の戦いの際、羽柴秀吉軍が久保山に築いた砦。東西八間、南北十間の規模だったという。長久手の戦い後に秀吉自らがこの砦から全軍を指揮したので、太閤山と呼ばれる。現在の熊野神社一帯が砦跡である。

(説明版)

(熊野神社)

コラム:碑があったのらしいですが、気がつかなかったため写真がありません。説明版には丹羽長秀が守備したとあったのですが、長秀は小牧には来ていなかったと記憶しています。


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