伊勢北畠巡り2009(阿坂城・大河内城・北畠具教の墓)

 2009年6月20日(土)、三重県の北畠氏関係の史跡を廻った。

1.阿坂城・・・松阪市大阿坂町1180にある。標高300メートルの山城。北畠氏が1335年に築城。1415年、足利幕府軍に攻められた際、水の手を断たれたが、北畠軍は馬に米を流して水で洗っているように見せかけたという伝説があり「白米城」とも呼ばれる。
 1569年、織田信長が伊勢攻めをした際も攻撃対象となり落城。この城攻めで豊臣秀吉が左脇を弓で射られたが、それが秀吉の戦場で最初で最後の負傷といわれている。

感想:とにかくきつかった>< 頂上まで40分、傾斜はゆるやかだがずっと上り坂で運動不足も重なって頂上に着いた頃はふらふらになっていた。史跡巡りがしたいなら普段から運動しとけってことやね。
 ここからの眺めは最高・・・だと思う。晴れていればね。
 ちなみに住所だけど、北畠氏の菩提寺・浄眼寺のものです。ここに阿坂城登山者のための駐車場があり(多分、お寺の駐車場と兼ねている)、登山口も目の前です。

(道の途中)

(山頂)

(山頂からの眺め。奥で何か光っていたが、何なのか分からなかった)


2.大河内(おかわち)城・・・松阪市大河内町城山にある。1569年、信長の伊勢攻めで北畠具教が籠もり1ヶ月余り耐えたが、ついに和睦(実質は降伏)。信長の次男・信雄が北畠氏の家督を継ぎ、田丸城に移ったため、廃城となっている。現在は戦前に建てられた神社や碑がある。
感想:入り口の案内板に「大河内地区市民センターで資料がもらえます」と書いてあって行ってみたが、本日は職員さんはお休みでした。
 城というより「北畠氏の忠義を讃える神社」といった雰囲気だった。遺構もあるらしいけど・・・。

(馬場跡)

(城趾碑。碑はこの近くにもう一つある)

(二の丸跡にある鳥居)


3.北畠具教の首塚・・・松阪市飯高町野々口にある。1576年、具教が三瀬館で謀殺されると家臣が首を奪って霧山城まで持って行こうとしたが、力尽きてここに埋葬したという。

感想:場所が分かりづらそうだったので、行けるかなあ、と思っていたけど、案内の看板があり、無事たどり着けた。ただ、道が狭いので、駐車はちょっと大変。

(北畠具教の墓)


 ここでタイムアップ。13:30から津市で講演会があったので、そちらに向かった。10分ほど遅刻したけど、取りあえず講演は聴けた。

感想:北畠神社も行くつもりだったけど、上記の理由により断念。奈良県に行くときに一緒に行こう。でも、その側にある霧山城は登るかどうか微妙だな・・・。標高560メートル、山頂まで約1時間かかるらしいので。
 まだまだ東海三県も行っていないところがたくさんあるな。

写真の提供についてはこちらをクリック


福井城(越前松平家の居城)

住所:福井市大手3

 1600年、結城秀康が越前67万石の大名となり北庄城に入ると大改修を行なう。本丸と二の丸の縄張りは父・徳川家康が行なったと言われる(三の丸は家臣の吉田好寛)。1606年には四層の天守が完成している。
 当時、名前はそのまま北庄であったが、松平忠昌が北庄の北が敗北に通じるとして福居(のちに福井)に改称した。1669年、天守閣は大火で焼け落ちてしまい、その後再建されなかった。1871年、廃藩置県で建物と外塀が破却され堀も埋められてしまい、城下町の名残を残していた福井市内も1945年の空襲と1948年の福井地震で失われてしまう。
 現在、本丸跡には県庁や警察本部などが建っている。

(藩主が本丸と西三の丸御座所を往復するために架けられた御廊下橋。2008年に屋根が復元された。今は藩主ではなく学生などが通り抜けに使っている)

(御廊下橋その2)

(御廊下橋から見た本丸西側の堀)

(山里口御門跡)

(天守台櫓台跡。天守は約28メートル、天守台は約9メートルの高さがあった)

(天守台にある福の井。福井の地名の由来になったという)

(天守台の石垣)

(福井震災で崩壊した天守台の石垣の一部)

(南側の石垣)

(県庁の南に建つ結城秀康の像。2002年に建てられたようだ)

(晴れた日の秀康像。普段はこんな感じ)

(南に架かる御本城橋から北側を望む)

(本丸南側の堀)

(1943年に建てられた最後の別格官幣社・福井神社の鳥居。松平春嶽を祀る)

(境内)

(本堂の脇に建つ松平春嶽の像)

感想:福井城は堀や石垣がよく残っており想像していたよりも見所が多かったです。これで県庁がなくて公園にでもなっていれば良かったような気がしますが・・・。
 ちなみに晴れている時の写真は2004年のもの、雨が降っている時の写真は2012年のものです。

写真の提供についてはこちらをクリック