山陰帰省&史跡巡り2008(6日目:石井垣城・亀井茲矩の墓・山中鹿之助の墓)

 今日で山陰にいることが出来るのが最終日。今日も史跡巡りを決行。今回は前回行かれなかった鳥取市西部(旧・気高郡)を廻ることにした。

1.石井垣城・・・鳥取県西伯郡大山町石井垣にある。南北朝時代に伯耆の守護代・糟屋弥二郎がいたが、名和長年によって落とされた。その後、箆津豊後守が城主となった。現在は春日神社となっている。
 友達に連れて行ってもらった城。まったく知らなかった。南北朝時代はあまり・・・。
 ここはとにかく蚊が多かった!まあブンブンブンブンかなわん。神社を見て回ると早々に退散。ちなみに案内板には「因幡に類例のない・・・」と書いてあったが、ここは伯耆です。しっかりしてくださいな、教育委員会。

2.因幡勝山城・・・鳥取県鳥取市気高町勝見にある。戦国時代には山名・尼子・毛利・織田と目まぐるしく支配者が変わったらしい(因幡の城は大抵その経緯を辿っているが)。現在は公園となっており、遺構などは見あたらなかった。この公園だけで西国三十三ヶ所巡りが楽しめる(?)ようになっている。
 地図を見て思いつきで行っただけ。今、こうやってブログを書くまでどんな城かも知らなかった。う~ん、特筆すべきことは無し。

3.亀井茲矩の墓・・・鳥取市気高町上原にある。茲矩は尼子家の家臣で、山中鹿之助に従い尼子家再興のために各地で戦った。後に秀吉の家臣となり因幡鹿野1万4千石の大名となっている。関ヶ原の戦いでも西軍に付き、最終的には4万3千石を与えられた。
 善政をしいたので現在でも「亀井さん」と呼ばれて親しまれているそうな(現地の案内板より)。
 墓は鹿野城が望める山の上にある。そのせいで前に行った時は土砂崩れで登れなかったが・・・。

 その後、せっかく山陰に戻って来たのでそばが食べたかったが、鹿野町のそば屋はどこもいっぱい・・・。そば道場というところが空いていたが、「そばを自分で打たないいけない」と友達から聞いてパス。諦めて焼肉定食を食べた。

4.幸盛寺・・・鳥取市鹿野町鹿野にある。亀井茲矩が舅・山中鹿之助幸盛を供養するために建てたもの。殺された備中高梁から持ってきた鹿之助の遺骨が葬ってある。
 鹿之助の墓は歴史を感じさせるものだった。この墓って卵塔形だと思うんだけど、住職さんに多い墓のはず。なんでこの形なんだろう? 鹿之助は出家したことがあったのだろうか。

5.鹿野城・・・鳥取市鹿野町鹿野にある。亀井氏の居城。亀井家が石見津和野に移ると、一国一城令で廃城となった。石垣などが残っている。
 う~ん、普通の公園だね。何組かの家族連れがいて、一組は山頂まで登って行った。私たちも山頂に向かっていると途中で雨が降ってきて走って登った。えらかった・・・。

 これにて終了。実家に戻って最後の晩餐となった。翌日、愛知県に戻った。

感想:石井垣城はそれなりの縄張りだったので戦国時代も利用されたと思うが、誰が当主だったのか不明。しかし地元とはいえ、よくこんなマイナーな城知っていたなあ。



山陰帰省&史跡巡り2008(5日目:櫻井家住宅・尼子経久の像・塩冶掃部介の墓)

 今日は、昨日休んで体力を回復したので史跡巡りを再開した。今回は通ったことはあるが、史跡には行ったことがない奥出雲(現在は奥出雲町というそのままの名前になっている。横田町、仁多町の方がしっくりくるけどなあ)。
 ここは鳥取県のすぐ隣だけど遠い・・・。中国山脈の中にある町なので道が余り良くなくてきついんだよなあ・・・。
 そんなこんなで昼前には到着した。
1.可部屋集成館・・・島根県仁多郡奥出雲町大字上阿井内谷にある。大坂夏の陣で活躍した塙団右衛門の子孫の方が経営されている。塙団右衛門は夏の陣で戦死したが、嫡男の直胤が広島市安佐北区可部に逃げのび、その後、孫の直重が奥出雲で製鉄業を始め、現在に至る。
 可部屋集成館には塙団右衛門の遺品、たたらに関係した日本刀などが展示してある。また隣の櫻井家(塙団右衛門の妻の姓。陣後に二代目が櫻井姓に改めている)住宅が国指定の重要文化財となっている。
 「島根県で塙団右衛門!?」という意外な関係を知って行ってみた。中には塙団右衛門の鎧や槍などが展示してあり、団右衛門好きにはたまらないところ。
 櫻井家住宅は部屋に上がるのは禁止だったが、人がいたのでどういうことかと思っていたら親戚の方が帰省されていただけだった・・・。お盆だもんな。

(櫻井家住宅日本庭園)

 住宅や集成館の下にそば屋があったのでそこで昼食にした。たまたまそば屋のテーブルで櫻井家ご当主の次男の方と一緒になり、そばを食べながらちょっとだけ話をした。
(そば屋の側を流れる小川)

2.鬼の舌震・・・島根県仁多郡奥出雲町にある。県立自然公園。史跡とは何の関係もない。「阿伊の里に住む玉日女命を恋い慕った和仁(サメ)が、日本海より斐伊川を夜な夜な通い来たので、姫は大岩で川をせきとめ、拒まれた和仁は一層烈しく姫を恋い慕った。その「和仁のしたぶる」が訛って、【鬼の舌震】と呼ばれるようになった(鬼の舌震ホームページより引用)」だそうな。
 特に行く気は無かったが、看板が目についたので行ってみた。景色は確かにいいが、同じような風景がずっと続くので途中で飽きてきたので引き返した。家族連れなら楽しいんだろうね。


3.奥出雲たたらと刀剣館・・・島根県仁多郡奥出雲町横田にある。日本刀の材料となるたたら製鉄によって生み出される玉鋼の作成過程などを紹介している。
 刀にはまったく興味がない私だが、ここは勉強になった。美しい日本刀を作るためにここまでの苦労がいるとは・・・。砂鉄から三日三晩の徹夜で玉鋼を作る職人さんにはただただ頭が下がるばかり。
 ここで奥出雲は終わり。帰りしな隣の広瀬町(現在は合併して安来市)に寄った。言わずとしれた尼子の本拠地・月山富田城があるところである。
4.尼子経久の像・・・島根県安来市広瀬町富田にある。山陰を中心に中国地方を支配した武将・尼子経久の銅像。織田信長とは80年、毛利元就とも50年も生まれた時が違う戦国初期の武将のため、国人衆など支配が室町時代中期のやり方を引きずっており、後の代で苦労する。しかし名将の一人なのは間違いなく、東の下克上の代表が北条早雲なら、西の代表は経久になるだろう。
 銅像が広島方面に向いているのは毛利への牽制?

5.尼子晴久の墓・・・島根県安来市広瀬町富田にある。経久の跡を継いだ尼子家当主の墓。吉田郡山城攻めでの失敗や、新宮党の粛正などで評価は低いが、中国地方の雄となった尼子氏の勢力を保っているので、少なくとも平均以上の能力は持っていたのは間違いない。ただ経久と毛利元就の偉大さのために評価が下がっているだけ。
 月山富田城の麓にひっそりと葬ってある。

6.山中鹿之助屋敷跡・・・島根県安来市広瀬町富田にある。鹿之助は尼子家が滅んだ後も、御家再興のために奮戦した武将。そんな彼が生まれて育ったと言われる場所がここである。
 何を考えてそこまでやったのか同じ山陰人でもよう分からん。手段が目的に変わってしまったような気もするが・・・。

7.塩冶掃部介の墓・・・島根県安来市広瀬町富田の畑の一角にある。月山富田城の城代だったが、富田城奪回を狙う尼子経久にだまし討ちにあって自害した。
 むやみに荒らすと祟りがあるらしい。墓は祟りが無くても荒らさないので、そっと撮影して去った。

 ここで土砂降りとなったので富田周辺の史跡巡りは諦めて実家に戻った。
感想:出雲というと石高も低く経済基盤も弱いイメージがあったが、今回の史跡巡りでそれが変わった。昔、読んだ経久の紹介にも「気候が厳しく平地も少ないところから中国地方の一大勢力に・・・」なんて書いてあったが、出雲地方は美保関などの良好な港、朝鮮半島との貿易、鉄の輸出、近くの石見銀山から獲れる豊富な銀などで、戦国時代は経済的に恵まれていたのではなかったのだろうか。
 山陰で生まれ育ったせいか「こんな田舎じゃあ不利だ」という偏見があったが、出雲は周辺に有力な大名がおらず(大内のいた山口県を除く)経済基盤もしっかりしていたので経久はいち早く戦国大名になれたのだろう。

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山陰帰省&史跡巡り2008(3日目:出雲大社)

 今日は出雲大社に行った。帰省する前は「久しぶりに行こうかなあ」程度だったが、本殿の特別拝観(60年に一度)が出来ると知って、朝一から出雲市に向かった。
 昔は出雲市に行くのは9号線しかなかったので時間がかかったが、今は高速道路が出来て僅か1時間半で着くようになった。便利になったなあ。
 9時に出雲大社の前に着くとすでに駐車場待ちの車でいっぱい。埒があかないのでUターンして大社の隣にある「島根県立古代出雲歴史博物館」に停めた。そちらも停めた後、すぐに満車。危なかった・・・。
 今回の特別拝観は整理券がいるので、社内の拝観専用の受付でもらうと書いてあった時間が「13時」・・・。え~、受付が9時からでほぼ受け付け開始期間に来たのに~。後で周りを見て気づいたのだが、どうもハガキで事前申し込みが出来て、そちらの人を優先だったらしい。
 仕方がないので境内をうろうろして時間をつぶしてみた。

(仮殿)

(元親ポーズの大国主命。大きな袋を肩にかけ大黒様が・・・♪)

 「今年の運勢は次第に順調になり、希望も叶う。旅行は東が良い」
 あまり暇なので占いを買ってみたりもしたが、まったく時間が経たん!
 そこであまり行く気も無かったが、「島根県立古代出雲歴史博物館」に戻って中を見学して時間をつぶすことした。私、古代はあんまり興味がないもので・・・。

(博物館)

 入るといきなりあるのが、出雲大社境内から2000年に発見された「宇豆柱」。太い。これが元々の出雲大社を支えていたのか。これを見ると出雲大社の本殿の高さが当時の建造物の中で日本一だったという説も頷ける。

(宇豆柱)

 それからじ~~っくり出雲大社、出雲地方の歴史についての資料を見て回った。知らないことばかりで勉強になった。あんまり頭に残っていないけど・・・とにかく輝かしい時代があったことだけは分かった。
 その後、企画展の「聖地★巡礼–自分探しの旅へ–」を見る。フランスからスペインへ至る巡礼コースの旅を紹介するというもので日本で言うところのお遍路さんである(その繋がりでお遍路さんの紹介コーナーもあった)。
 民族や宗教は違えど、みんなやること一緒なんだな。私も金と時間に余裕があればやってみたい。
 これでやっと時間が12時半となり、待合いの場所に行って順番を待つ。時間より10分ほど遅れて本殿の中に入る。中は・・・レアなだけで建物自体がそんなに立派という訳ではなかった。

 本殿を出た後、実家に戻った。とにかく疲れた・・・。

感想:とにかく待った!こんだけレアなものを見られたんだから多少はご利益あるといいな。