四国一周史跡巡り(8日目:三島神社・牛岐城・平島公方の墓・丈六寺)

 平成20年5月3日、前日、宿の方に室戸岬で朝日を見たいから何時頃行けばいいかと聞いたら「明日は天気がいいから見られるだろう。ただ最近は日の出が早いから5時半頃には行かないといけないなあ」と言われて萎えた。こんなに長く旅していなかったらそんな元気もあったけどねえ・・・ーー;
 ということで普通に7時半に出発しての室戸岬の写真です。綺麗だなあ・・・。青いなあ・・・。

79:大野家源内槍掛けの松・・・高知県室戸市佐喜浜町にある。長宗我部元親が阿波に侵攻する際、抵抗した佐喜浜城主・大野家源内が奮戦した場所である。悪逆非道の元親(かその家臣)はその際に老人や子供までも皆殺しにし、この地区で生き残ったは20数人だけだったという。老人や子供を皆殺しにする必要も理由もなかったと思うけど、とにかくそうらしい。
 今は静かな港町だった。あ~、潮の香りが心地よい。

80:五社神社・・・高知県安芸郡東洋町白浜にある。この周辺の土地を長宗我部盛親の家臣・明神信勝が大坂落城後、山内家に仕えて、開拓した。五社神社はその信勝を祀る神社である。隣の墓地には信勝の墓もある。
 この五社神社には御輿とだんじりが喧嘩をする祭りがあり、この日がその当日だったらしく神社周辺は人でごった返していた。時間があれば見たかったが・・・残念。

 ここから徳島県です。

81:三島神社・・・徳島県海陽町奈佐にある。長宗我部元親の末弟・島弥九郎が病気療養のため京都に向かう最中、安芸氏の遺臣の依頼でこの周辺を治める海部氏に殺された。三島神社はその島弥九郎を祀っている。
 神社の隣で車を掃除している方に聞いたが「この神社って三島神社って言うんだっけ?」と言われるので、不安だったが境内に島弥九郎の鎮魂碑があったので間違いないだろう。

82:二子島・・・徳島県海陽町にある。ここに停泊していた時に島弥九郎は襲われている。これを知り怒った長宗我部元親は土佐統一後、海部城に侵攻し、阿波攻略を開始した。
 二子島近くの海岸に行くとアサリ獲りの家族が二組ほどいた。あ~のどかだな。とても悲惨な事件があったとは思えない雰囲気の場所。

83:海部城・・・徳島県海陽町鞆奥にある。海部氏の居城。海部氏は上記の通り、元親の怒りに触れて滅ぼされた(触れなくても滅ぼされただろうが)。当時は中州の上に建っていたらしい。
 場所は港で聞いてすぐに分かったが、やっぱりここでも「登る人間なんかいないよ」って言われた。時間があるので登ってみたが、道が無くなり途中でやめた。

84:日和佐城・・・徳島県海部郡美波町日和佐にある。日和佐肥前守が長宗我部元親の侵攻を防ぐために築いた城・・・だが、多勢に無勢、結局は長宗我部軍に落とされている。現在は模擬天守が建っている。
 模擬天守だが、今は運営が町から企業に移行され改装工事中のため中に入れなかった。まったく残念じゃなかったけど。

85:真如院道明寺・・・阿南市椿泊町東にある。森家の菩提寺。森家は鳴門市にある土佐泊を本拠地とし、水軍として活躍したが、四国征伐後に蜂須賀家に仕えて、ここ椿泊に移り、蜂須賀家の水軍を仕切った。
 ここは道が幅が狭かった!道明寺に行く直前の道は江戸時代から変わっていないらしく、ちょっとでもカーブがあるとドキドキ。擦らなかったのが奇跡だった。心臓に悪かった・・・。
 墓は立派なもので、立派すぎて藩主からお叱りを受けたそうな。



86:桂国寺・・・徳島県阿南市長生町寺ノ前にある。蜂須賀家の家臣・賀島氏の菩提寺で賀島一族の墓がある。ここはそれよりも庭造りで有名な上田宗箇が手がけた庭があることで知られている。
 ここは場所が分からなくて苦労した。同じ道を行ったり来たりしてやっと着いた。しかも着いたはいいけど、墓は無惨な姿・・・TT 倒れた五輪塔がいくつもそのままの状態であり、悲しい気分になりました。

87:牛岐城・・・阿南市富岡町殿町にある。阿波に侵攻してきた長宗我部元親によって次々と阿波の城が落とされるが、ここ牛岐城の新開氏は果敢に抵抗し、容易に落ちなかった。しかし1579年に敗北し、ついに1580年に降伏した。その後、長宗我部氏のために働くが、1582年の中富川の合戦後、新開氏が一宮城の一宮氏と結んで長宗我部氏を裏切ろうとしたので、丈六寺で謀殺された(別の説では牛岐城が落ちなかったため、和睦をしたいと長宗我部元親が申し出て、了承した新開氏が丈六寺に来たところで殺されたことになっている)。
 四国征伐後、蜂須賀家が阿波を治めると賀島氏が入り、富岡城と名を改められた。現在は産業展示館が建っている。
 石碑があったので、それを撮影して終了。高校生3人が楽しそうに弁当を食べていたのが印象的だった。

88:西光寺・・・徳島県阿南市那賀川町赤池にある。平島公方と言われる足利将軍家の血筋を引く一族の菩提寺。この系統から足利幕府14代将軍・義栄が出ている。しかし織田信長に追われて阿波へ戻り、再び上洛の機会を狙っていたが、結局、豊臣秀吉が天下を統一したため、将軍に返り咲くことはなかった。
 平島公方家は平島荘を領地とし、蜂須賀家が阿波を支配してからも引き続きそこで暮らしたが、蜂須賀家は自分の家より格段に格式の高い平島公方が領地にいるというのがうっとうしかったのか、禄高を減らし平島姓を名乗らせるという嫌がらせを行なっている。
 長宗我部元親は阿波支配時に、この平島公方の領地の安堵を行なっている(その時の平島公方家の当主は義栄の弟・義助)。

89:丈六寺・・・徳島県徳島市丈六町丈領にある。徳島県内では屈指の由緒あるお寺。細川家と、蜂須賀家の家臣の墓が多数ある。また牛岐城主・新開道善が長宗我部元親にだまし討ちにあった際に、飛び散った血のついた縁を天井に用いた血天井もある。
 ここは一見の価値有り!丈六寺自体が立派なのはもちろんだが、蜂須賀家の重臣達の墓や供養塔が軒並みそろっている。墓の場所を記した地図をお寺の方からもらった時、「うお・・・。大坂の陣絵巻を作成する際に蜂須賀家を調べた時に出てきたあの人やこの人の墓がある」と思って興奮して(墓に行って興奮するっていうのもどうかと思うけど、普通の方に例えると知っている有名人にいっぱい会えるようなものだと思ってください)、墓に参って激写・激写。ただ断っておきますが、他の墓でもそうだけど最初にちゃんと手を合わせてご冥福をおいのりしてから撮影していますよ。
 でも蜂須賀家の家臣のことを知らないと・・・ただの立派な寺にしか見えないんだろうなあ・・・。

(血天井)

稲田示稙の墓)

益田長行の墓。海部城の近くにもあったらしいのだが、そちらは行っていない)

 ここで徳島県に来ていた愛知県の知り合いと連絡を取って、ホテルにチェックインした後、徳島駅で落ち合って飲みに行った。彼は私のような軟弱な人間とは違い、和歌山港まで車で来て、そこからフェリーに乗って徳島港に着き、自転車で徳島市~三好市~大豊町~高知市~室戸市~徳島市と廻ったらしい。
 「いろいろと知られていないような史跡も発見出来ると思うから自転車はいいよ」
 彼からそう勧められたけど、嫌ですわ・・・。というか無理ですわ。
 とにかく彼とすだち酒を飲みまくって、徳島の幸を食べまくってベロベロになった後、お互いのホテルに帰った。

感想:室戸岬から徳島市までが半端じゃなく遠かった。しかも途中、コンビニとかもほとんどないし・・・。お遍路さんはどうやって行っているのだろうか。23番の薬王寺と24番の最御崎寺が100キロ近くあるんですけど・・・。四国をぐるっと回った限りではここが最大の難所のような気がする。
 明日で旅も終わりかあ・・・TT 四国から離れるのは辛いなあ・・・。そして愛知県まで戻る距離と渋滞が辛いなあ・・・。

写真の提供についてはこちらをクリック


四国一周史跡巡り(7日目後半:香宗我部秀通墓松跡之墓標・安芸国虎の墓・北川玄蕃の墓)

72:香宗城・・・香南市野市町土居にある。香宗我部氏の居城。香宗我部氏は安芸氏に攻められ、嫡子が亡くなってしまう。そこで勢いのあった長宗我部国親の三男・親泰を養子として迎え家督を譲った。
 お城には土塁らしきものの上に神社が建つのみ。

73:香宗我部秀通墓松跡之墓標・・・香南市野市町にある。上記のように香宗我部家は長宗我部家から養子を迎えるが、これに当主の弟・秀通が反対したため、謀殺されてしまう。その秀通の墓があった場所。
 墓地の中にあるためか整備が行き届いていた。ここは行く人、いなさそうだな・・・。

74:宝鏡寺・・・香南市野市町にある。香宗我部氏の菩提寺で、外交・軍事などで活躍し兄・元親を支えた香宗我部親泰の五輪塔がある。
 ここは荒れ放題だった。草をかき分けて一つ一つお墓を確認していった。

 ここで今までの旅の疲労が出て集中力が無くなってきたのか、何でもない道で車を擦った。あらら・・・。
 その後、風光明媚と言うことで琴ヶ浜に行ったが・・・う~~ん、普通の浜だね。

75:矢流(八流)古戦場跡・・・安芸市赤野甲のレストラン矢流にある。1569年7月、土佐の西部を支配する安芸国虎と、本山氏を降伏させ土佐中部で勢いに乗っていた長宗我部元親が激突した戦い。
 レストランの駐車場にぽつんとある。ここになぜ矢流と八流という二つの字とも当てられることがあるのかが説明してあった。

76:浄貞寺・・・高知県安芸市西浜にある。安芸氏の菩提寺。安芸一族や家臣の墓がある。
 最初、迷って阪神の安芸キャンプのグランドに出てしまった。すぐ近くなのだが、徒歩で行く道すらないので戻った。
 肝心のお墓は風化でかなり痛んでいた。境内には安芸氏を祀る安芸神社もある。

77:安芸城・・・高知県安芸市土居にある。安芸氏の居城。安芸氏滅亡後は香宗我部親泰が入り、山内家が土佐の国主となると、後藤家(一豊の顔から矢を抜いた人の家)が入る。現在は資料館が建っているが、安芸氏時代の遺構なども残っている。
(毒井戸跡。安芸落城の原因となったと言われている毒が投げ込まれた井戸。元親の命令か、裏切った安芸家の独断か・・・。私は元親がやらせたと思っていますが)

78:松林寺・・・高知県北川村柏木にある。北川氏の菩提寺。北川玄蕃は烏ヶ森城主で安芸国虎の滅亡後に、長宗我部元親に攻められ戦死した。
 この周辺は中岡慎太郎の出身地として知られ、記念館もすぐ側にある。玄蕃の墓が分からなかったので、記念館の学芸員の方に案内してもらった。
 その方の話によると玄蕃の子孫は生き残り、この地区の有力豪農として生活していたが、藩に禁止されていた何かの製造に手を出して(何だったか忘れました)、それを南国市から移ってきた中岡慎太郎の祖父に咎められ、口論の末、北川某さんは慎太郎の祖父を斬り殺してしまったとのこと。その後、中岡家が北川家の家の株を買い取り北川家に入った、とかいう話を聞きました。
 松林寺は中岡家の菩提寺でもあるので、北川さんと中岡さんのお墓が多数あった。
 ここまで説明を聞いてタダで帰るのも失礼なので、何も知らないまま、中岡慎太郎館を見て回った。
 ちなみにここに来るまで北川玄蕃を、一条内政の謀反に荷担した波川玄蕃と勘違いしていました。

 そのまま室戸市の宿に向かって海鮮料理を食った後(この時、旅の途中でもらったポンカンを切ってもらって食べた。上手かった)、寝た。

感想:この日辺りが、旅ボケまっさかりで、ニュースで愛知県での事件が流れていても「へ~、愛知県ってところで事件があったんだ。都会は怖いなあ」くらいで、自分の住んでいる県にまったく思えなかった。
 長宗我部関係の史跡が荒れているのが気になった。普通の人は行かないような場所ばかりで、整備しても金にならんしメリットはないのは分かるんだけど・・・。何とかしてほしいです。ドラマにでもなればいっきに整備されるんだろうけど、その時に今度は行きすぎた整備しそうなので、それはやめて欲しいなあ・・・(遺構を破壊するなど)。
 今日で残念ながら高知県はほぼ終わりです。明日からはいよいよ四国で最後に残った徳島県を廻ります。

写真の提供についてはこちらをクリック


四国一周史跡巡り(7日目前半:土佐神社・隼人神社・比江山城・津野親忠の墓)

 平成20年5月2日、旅立ってもう一週間かあ・・・。このままあと1ヶ月くらい四国にいてゆっくりと史跡巡りしてもいいような気がしてきた。
 ちなみに高知市が少ないですが、2年ほど前に来たので(高知県史跡巡り2006)、前回行けなかったところを廻った。

64:土佐神社・・・高知県高知市一宮にある。土佐一宮にあたる格式の高い神社で、長宗我部元親が本殿・幣殿・拝殿を再建した。
 が・・・その再建した幣殿・拝殿が修復中だった。雲辺寺に続いてがっかり。また来よう・・・。

65:隼人神社(田邊島神社)・・・高知市大津乙にある。長宗我部氏の重臣で勇将として名高い福留親政・儀重を祀っている神社。戦時中は、ここで出征する方の無事の帰還を祈ったそうだ。
 ここもよくある住宅街の中にある神社という感じでだった。

66:谷家の墓地・・・南国市岡豊町八幡米ヶ内にある。長宗我部家に仕え活躍した谷忠澄を先祖とする谷一族の墓がある。
 残念ながら後で忠澄の墓は高知県幡多郡黒潮町入野1438の長泉寺にあるらしいことを知った。今度行けたら行こう・・・。

67:香川親和の墓・・・南国市岡豊町八幡岡豊山。高知県歴史民俗資料館に向かう途中にある。看板があるので、そこから下っていけば行ける。香川親和は長宗我部元親の次男で、戸次川の戦い後、後継者問題を気に病んで亡くなったという。
 「看板があるのに分からない」という話を良く聞きますが(私も前に行った時そうでした)、看板を信じてそばにある階段を下れば必ずあります。諦めないで!
 肝心のお墓ですが、土佐国主の息子の墓にしてはこぢんまりしたものでした・・・TT

68:長宗我部氏一族の墓・・・南国市岡豊町八幡にある。国親までの長宗我部一族の墓がある。民家の奥にあり非常に分かりづらい。
 独力では絶対にたどり着けないと思ったので、高知県歴史民俗資料館で詳しい場所を聞いてから行った。間に道がないので気がつかないが、実は香川親和の墓のすぐ近く(車や徒歩だと遠回りになるので、離れているように感じるだけ)。

69:比江山城・比江山神社・・・高知県南国市比江にある。長宗我部一族である比江山親興の居城。親興は吉良親実と共に後継者問題で元親に反対したため自害させられた。比江山神社は比江山城の天守にあり親興を祀ってある。
 道は舗装されていない上に狭いものの神社まで車で行ける。訪れる人もない雰囲気で悲哀を感じた。

70:津野神社・・・香美市土佐山田町神通寺にある。長宗我部元親の三男・津野親忠を祀り、遺体はこの床下にあると言われている。1600年、土佐国主・長宗我部盛親が関ヶ原の戦いで西軍についたため、徳川家に近かった親忠が国主に変わる(もしくは兄弟で国を半分に分ける)という噂が出た。そこで盛親の側近が独断で親忠に自害を強要した(盛親自身の関与説もある)。長宗我部家改易の大きな原因の一つと言われている。
 草が生えて荒れ放題だった。

71:津野親忠の墓・・・上記の津野神社のすぐ北にある。神社が建てられたので、そこにあった五輪塔がこちらに移された。ここにあった霊厳寺に親忠が幽閉されていた。
 こちらは津野神社以上に荒れ放題で、五輪塔も見えるか見えないか分からないくらいの有様で、すぐ近くで農作業されている方に聞いてやっとどれが津野親忠の墓なのか分かった。

(この荒れっぷり。案内板は倒れて違う場所にあるし。香美市さん、整備をお願いします)

写真の提供についてはこちらをクリック