元親公初陣祭り(2日目:祭り本番・雪蹊寺・戸の本古戦場)

 平成20年5月25日、朝の8時半に出発。今回は祭りのある高知市の長浜地区を中心に廻った。

9:秦神社・・・高知市長浜857にある。長宗我部元親を祀る神社で、後ろは長宗我部氏と本山氏が争奪戦を繰り広げた長浜城である。

10:雪蹊寺・・・上記の秦神社の隣にある。長宗我部元親の菩提寺で、四国霊場33番目。寺の名前は元親の法名「雪蹊恕三大禅定門(せっけいじょさんだいぜんじょうもん)」から来ている。ここには戸次川の戦いで戦死した元親の長男・長宗我部信親の墓がある。
 この日はお茶会とお遍路さんで人がごった返しており車やバスがいっぱいで、車を停めるのが大変だった・・・>< 私も道の狭いところが多い土地に住んでいたので経験があるが、そういうところの住民はどんなスペースにでも車を停められるので、駐車場の詰まり方が並じゃあなかった。
 信親の墓に行くと若い女性が3人ほどおられて、時代の移り変わりを感じた。
 雪蹊寺にはその後も行くが、宝物館にある信親の鎧にも若い女性の方が食いついてじっくりと見られていた。信親みたいな「若死・美男と伝わっている」って条件がそろっている武将は人気があるなあ・・・。

11:戸の本古戦場・・・高知市長浜の戸の本公園にある。浦戸湾周辺の支配を巡って長宗我部氏と本山氏が激突し長宗我部氏が勝利に終わった戦い。長宗我部元親が初陣を飾った戦いで、それまでの評価を覆し英雄の片鱗を見せた。
 現在は公園内に「戦没者の骨があるので、むやみに掘ってはいけません」と言った意味が掘っている碑があるのみ。

12:若宮八幡宮・・・高知市長浜6600にある。長宗我部元親が初陣の前に戦勝を祈願し、見事勝利を収めたため、以来、元親の祈願社になったという。
 今日はこの神社の敷地内にある長宗我部元親像の前で初陣祭が行われる。

 神社を見て回っているうちに、ちょうど時間になってきたので会場である銅像前に向かった。

(銅像に行く途中の道。七つ酢漿草の幟でいっぱい・・・)

 会場について元親の銅像を写していると「県外から来られた方はこちらにお座りください」と言われて、用意していただいていた席に座った。
 時間の11時になると、銅像に対して祝詞をあげるなど儀礼が厳かに行われた。

(儀礼の最中。何を祈ったりすればいいのかよく分からなかった。長宗我部家の人気向上? 元親への鎮魂?)

 その後、元親の銅像洗いが四国電力さんによって行なわれた。が・・・見ている最中、長宗我部顕彰会の方が「会報をみんなに渡したいが、家に忘れたので取りに行きたい」と言われ、私が運転手に指名された。ど、銅像洗い、戻ってくるまでに終わらないといいな・・・。
 それから長宗我部氏に関係することについて話を教えていただきながら、その方を家まで送迎して元の銅像前に戻った。上半身の清掃には間に合わなかったものの、まだ銅像洗いの最中だった。ほっ・・・。

(点検中です)

(元親の股洗い。一番、みんなのテンションが上がった。元親が立ちションベンをしているように見えるのは私だけ?)

 股洗い・・・じゃなくて銅像洗いが終わると、食事会(直会)。ここで今回県外者が9人おり、内8人が女性であったこと(要するに男性は私だけ)、熱中夜話で「大河ドラマにして欲しい人物」で長宗我部元親が一位だったことなどが語られた。
 写真を写すのを忘れたが、用意していただいた食事が豪華だった。ありがとうございます。そこで私は隣になった長宗我部顕彰会と長宗我部氏や歴史についてずっと話していた。
 食事会が終わると再び史跡巡りに出発した。

13:長宗我部元親の墓・・・高知市長浜にある。伏見で亡くなった元親はここに葬られた。
 崩壊の危険があると度々聞いていたが、今回良く見るとあちこちに高知市の危険区域みたいなことが書いてある杭があった。かなり抵抗はあると思うが、私個人の意見としては、そんな危険なところにいつまでも置いておかず、どこか別の安全な場所に移転した方がいいと思う。
 歴史がどうこうの前に後ろの山が崩れて墓が土砂で埋まったら元も子もないし。

14:一領具足供養の碑・・・高知市浦戸にある。長宗我部盛親が改易される際、一領具足(長宗我部氏の下級武士)が抵抗したものの、破れて多数が討ち取られた。これを浦戸一揆と言うが、その供養のために建てられたのが、碑と六体地蔵である。
 一領具足はここの隣の場所で処刑されたが、そこは何を建てても悪いことが起きると言うことで空き地になっていた。さすがに墓に行きなれている私でもそこはよう撮影せんかった・・・。
 その他に彼らを祀った石丸神社があるが、2年前に来たときより、新しくなっていた。

(2年前)

(現在)

15:浦戸城・・・高知市浦戸にある。長宗我部氏最後の居城。元親が前の居城・大高坂山城で水害に悩まされたために、すぐに海から出陣でき、経済的な活動拠点にもなる浦戸城に移転した。長宗我部家が改易になり、山内家が入ると大高坂山城(高知城)に移ったため、廃城となった。
 遺構は桂浜開発のため、あちこちが破壊されており、わずかに石垣や本丸跡、堀切などが残るのみである。
 ここは地元の方に案内してもらったので、前回来たときは気がつかなかった遺構に行けた。本当に感謝感謝ですm(._.)m

(堀切。ここも遊歩道によって分断されていた)

 それから同行した方が隼人神社を探されていたので案内した(けど前回はカーナビで行ったので、場所だけ説明してそこまでは逆に案内してもらった)。写真は・・・3週間前に行ったばかりだったので、ろくに撮影しなかった。
 その後、用があったので再び長浜方面に戻り、若宮八幡宮に立ち寄って神社の方と長宗我部氏や幕末についてお話しさせていただいた(私は長宗我部氏や幕末はそれほど詳しくないので、神社の方と同行した方の話を聞くだけだったが)。そして最後に定番の桂浜に寄って史跡巡りは終了。

 この時、まだ6時だったため、「夜行バスが出る22時半まで何をしてようか」と思っていたら、今回史跡を一緒に廻った皆さんで食事をすることになり、高知駅の近くで22時近くまで、お話しさせていただいた。
 やっぱり皆さん、詳しい・・・。私ももっと勉強しないと、おいて行かれるよ・・・。
 そして夜行バスで高知市を後にして名古屋に戻った。やっぱり疲れが取れないので、半日ほど家で寝た。強行軍ではあったが、思い出に残る旅立った。
 最後に、史跡巡りに同行していただいた皆様、初陣祭りでお話しさせていただいた方、本当に本当にありがとうございましたm(._.)mm(._.)m
 またいつかどこかでお会いしましょう!!

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元親公初陣祭り(1日目:岡豊城船着き場・吸江寺・薫的神社・毛利勝永屋敷跡)

 平成20年5月23日、高知県長浜にある長宗我部元親の銅像の前で元親公初陣祭りがあるという情報をネットで知り、再び高知に行ってみた。
 5月23日に夜行バスで名古屋を出発し、朝の7時には高知駅に着いた。あまり寝られなくて疲れた・・・>< 今回は公共交通機関での旅の予定だったが、車を借りることが出来たので、それで移動することにした。
1:南国市の岡豊城の国分川沿いにある船着き場。

2:伊達兵部宗勝の墓・・・高知市五台山にある。伊達政宗の息子。伊達騒動の中心人物として罰を受け、高知に蟄居となった。この伊達騒動には、伊達兵部の一派と敵対した柴田外記が長宗我部元親の孫、伊達兵部を土佐で見張ったのが香宗我部家直系の子孫だった中山秀政と長宗我部家も関わっている。
 中腹にひっそりとある。お墓までの道は石畳で雨の日はすべるので注意が必要。

3:吸江寺・・・高知市五台山の麓にある。長宗我部氏が寺奉行を務めた寺と言われている。

4:清川神社・・・高知県高知市比島町にある。政情不安が続いた際に、山内家に恨みを持つ長宗我部元親・野中兼山・薫的和尚を鎮めるために建てられた神社。
 隣の熊野神社が明らかに目立っており、そこにある碑にも「最初に清川神社があって、その後、熊野神社に敷地を提供したが、ひさしを貸して母屋を取られるの状態になってしまった」ようなことが書いてあったと同行していただいた方が言っておられた。

5:薫的神社・・・高知県高知市洞ケ島町にある。ここは元々、瑞応寺という国親の菩提を弔うお寺で、元親が岡豊城から大高坂城に移転する際に、一緒に移動させた。薫的和尚はここの住職だったが、山内家二代藩主・忠義の法名と格式を巡って真如寺と争い破れ、絶食して亡くなった。

6:毛利勝信(吉成)の屋敷跡・・・高知県高知市丸ノ内の城西公園辺りだと言われている。西軍についた豊臣家の家臣・毛利勝信はこの辺りの屋敷に蟄居させられたが、3000石もの知行を与えられ、鷹狩りもするなど結構気軽な身分だったらしい。
 昭和50年代まで高知刑務所があったが移転したため、現在は城西公園となっている。高知城の北西にある。

7:吉良神社跡・・・高知県高知市越前町にある。長宗我部家の家督相続で元親の方針に反対して切腹させられた7人の家臣を祀った神社があったが、学校建設のために移転させられた。現在は、高知市山ノ瑞町70の若一王子宮内にあるらしいのだが未見。
 疲れていたので確認しなかったが、今、地図で見るとすぐ近くだった。行けば良かった・・・次、行こう・・・。
 これは吉良親実自刃地の碑である。

8:毛利勝永屋敷跡・・・高知県高知市中久万の小山の辺りだと言われている。
 この近くの久万川に停泊させていた船で浦戸港に出て土佐を脱出し、大坂城に駆けつけた説あり。昔は碑があったらしいが、道路拡張で撤去され今は何もないとのこと。悲しいTT

 これでこの日はおしまい。夜行バスでの疲れがあったので、ホテルに行って11時間ほど寝た。

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四国一周史跡巡り(9日目(Final):蜂須賀家歴代の墓・阿波一宮城・勝瑞城・中富川古戦場)

 平成20年5月4日、今日は最終日であまり廻る予定ではなかったので、遅めの9時頃に起きた。昨日の酒も残るような気がしたし(案の定、軽い二日酔いだった)。
 これで最後かあ・・・寂しいなあ・・・TT

90:興源寺・・・徳島県徳島市下助任町にある。阿波藩主・蜂須賀家の歴代の墓がある。
 蜂須賀家の墓地は公園となっており、普通の墓地のような薄暗い雰囲気はまったくなく、市民の憩いの場となっていた。庭もあり、とてもお墓に来ているような気分にはならなかった。
 墓そのものは、とても立派ででかさが並じゃあない。お墓に興味がない人と来ても問題なしの場所(楽しめるって事はないけど、嫌がりはしないと思う)。

91:一宮城・・・徳島市西丁にある。一宮氏が城主だったが、長宗我部元親に奪われた。この城こそ四国征伐の際、阿波戦線で最大の激戦が繰り広げられた城で、総勢5万もの豊臣の大軍に囲まれながら、谷忠澄が奮戦している。堅城だったが、水の手を断たれて落城した。その後、各地での長宗我部軍の敗退を聞き、元親は降伏を決意している。蜂須賀家が阿波を支配してからは、支城として残ったが、のちに廃城となった。
 向かいの13番札所の大日寺の賑わいと比べると静か。登り口に一宮神社があるので、ここに車を停めることが出来る(ただし自主的に神社に100円払ってね、という看板があった)。
 城は5万の大軍を敵に回して20日間も耐えたのが分かるくらい広く険しい。でも是非とも一度は登ってみたかったんだよね。長宗我部ファンの方には分かってもらえる・・・はず。
 頂上に着くと地元の方が弁当を広げてピクニックを楽しんでいた。

(一宮城から徳島市内を望む。ここに数万の大軍がひしめいていたんだろうなあ・・・。そう思うとゾクゾクするな)

92:見性寺・・・徳島県板野郡藍住町勝瑞字東勝地にある。元は勝瑞城があり、細川氏の居城だったが、家臣の三好氏によって殺されてしまう。それ以来三好氏が阿波支配の中心の城として使用したが、1582年、長宗我部元親と戦った中富川の戦い後に落城し、廃城となった。現在は三好一族の墓などがあり、土塁などの遺構も残っている。
 この日は近々「勝瑞城館跡まつり」があるらしく、周辺のあちこちで幟がはためいていた。どんな祭りなんだろう・・・。ネットでもほとんど引っかからないし。
 しかし中央で栄華を誇ったあの三好一族の城と墓がこれか・・・。栄枯盛衰だな。

93:中富川古戦場・・・徳島県藍住町大塚傍示にある。この辺りが阿波の覇権を賭けて長宗我部元親と十河存保が激戦を繰り広げた中富川の戦いがあったと言われている。四国内最大の激戦で、最終的には長宗我部軍の勝利に終わり、その後、勝瑞城を落とし、元親が阿波一国を支配した。碑などはないが、ここにある若一王子神社は戦死者の遺骨を集めて祀った神社となっている。
 神社に何も書いてなく自信が無かったので近所の方に聞いたところ、「ああ、そんな話聞いたことあるねえ」と言われたので、間違いないだろう。
 今は釣りをする方がいるくらいで平和そのものである。

94:光勝寺・・・鳴門市大麻町萩原にある。ここは勝瑞城を攻めた際に、元親が本陣を敷いた場所だと言われている。南北朝の戦いで楠木正儀と戦って戦死した細川頼春の墓もある。
 道沿いにあった「細川頼春の墓」という案内板がドブに落ちていたのが印象的だった。ひどい扱い・・・TT

95:三好長治終焉の地・・・徳島県松茂町山ノ手の招魂社内にある。長治は阿波の支配者だったが、国内を安定させることが出来ず、反乱が起き、ここで自害して果てた。
 例によってここに長治ゆかりの松があったが、昭和年間に枯れたため、現在のは二代目である。

96:木津城・・・徳島県鳴門市撫養町木津にある。三好氏の城だったが、1582年に長宗我部元親によって落とされた。四国征伐の際に長宗我部軍の阿波の最前線だったため、豊臣軍によって真っ先に攻められ落城した。
 現在は・・・とんでもないことになっていた。平成18年頃に木津城山公園にしようとしたが、予算の関係なのか中止したらしく、作りかけの無惨な状態になっている。ここに作っても人来ないでしょう・・・。そのおかげで城は見事に削られていた。

97:土佐泊城・・・徳島県鳴門市鳴門町土佐泊にある。前日に行った阿南市の真如院道明寺に眠っている森氏が戦国時代に本拠地としていた。長宗我部氏に最後まで抵抗し、長宗我部氏の阿波完全支配を阻止した。その後、四国征伐の際、豊臣軍はここを上陸地点としている。
 今はやっぱり整備されておらず、草ボウボウ。近所の方にも予想通り登るのは無理だと言われたので近くから写真を撮って終了した。

 これで長かった史跡巡りは終了・・・だが、せっかくなので鳴門海峡のうずしおを見に行った。

 それから食事をして帰った。GWなので明石海峡で大渋滞。しかも掲示板にもその先もまだまだ渋滞と表示されていたので、うんざりしてサービスエリアに停めて寝た。朝の1時に目が覚めると、さすがに空いており、中国自動車道、名神自動車道共に渋滞無しで帰れた。ただし着いたのが朝の4時だったが・・・。
感想:今回は最後だったので無理な予定を組んでいなかったつもりだったが、なんやかんやで時間がかかってしまった。
 帰りはやはり疲れた。車で移動される世間のお父さん、休日、ご苦労様です。
 またここまで旅行記を読んでくださった方、本当にありがとうございましたm(._.)mm(._.)m

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