山陰・山陽2500キロ史跡巡りの旅(7日目:津山城・上月城・赤穂城・龍野城)

 平成18年8月18日(金)、今日はいよいよ山陰を去って愛知県に戻ることにした。私の気持ちを反映してか、曇り空。というか台風が九州にいるので、かなりやばい天気になりそうである。
 それでも仕事もあるので、この日に帰らないわけにはいかない。取りあえず高速道路で津山市まで行った。目的は最近リニューアルした津山城。天気が悪いのでテンションが下がりっぱなしだったが、まずは森忠政とご対面。嘘でもいいから、もっと百段に乗った姿とかにしてあげればいいのに・・・(これ毎回言っているなあ)。

(何度も載せたけど森忠政)

 それからヘビ・虫などに歓迎を受けて天守へと向かう。いつ見ても慶長年間の経験・技術が熟成された頃の城はすごいなあ・・・、と感心しながら、石段を上がる。

(石垣)

 そしていよいよお目当ての備中櫓に。裏から見ると資料館にしか見えないけど、正面から見るとなかなか立派。

(備中櫓。中は部屋があるだけ。無料です)

 津山城をぐるっと見て回ると、他には寄らず津山市を後にする。そっからはひたすら179号を使って東へ東へと向かう。その時、地図を確認すると・・・あれ、途中に上月町(使った地図が古かった。今は佐用町)ってあるや。しかも上月城跡が載っている。ということで、ついでに寄ることにした。
 ここは皆様ご存じの通り、毛利軍と尼子&織田(羽柴)軍が激突し、尼子軍が破れ再興の道を絶たれた場所である。
 麓の資料館に車を停めると、資料館の方に教えてもらったすぐ近くにある尼子氏の供養塔に向かう。尼子勝久やら山中鹿之助やらいろんな人の供養塔があった。

(尼子勝久の供養塔)

 一通りお参りすると登山口から頂上に登る。頂上には尼子軍が入る前に羽柴軍に攻められて無くなった赤松氏の供養塔がぽつんとあった。

(頂上から見た風景。ここから鹿之助達は毛利の大軍を見たのでしょうか)

 山を下りると、本来の目的地である赤穂市に進路を取る。この頃には天気がすっかりくずれてしまい、雨の国道を南下することになった。まあここまで持っただけでもよしとしよう。数時間後、赤穂城に到着。浅野氏と四十七士ゆかりの地として有名・・・だが、実は森氏の治世の方が長い。まあ、どっちも関心はないんだけど。

(赤穂城の入り口。軍学者の意見を取り入れて造ったお城)

 中には当然ながら大石神社とかあった。

(神社にあった四十七士の銅像。大阪城でも大坂の陣に関係する東西の人物の銅像を、このくらいたくさん建ててほしいね)

 この他にも城の中をぐるぐる廻ったけど、特筆するようなことはなかった。それから徒歩で城の近くにあった花岳寺に行く。浅野家の菩提寺で四十七士の墓もある。そういや東京の花岳寺も行ったなあ・・・。なんやかんやいいながら四十七士関係の場所に結構行っているな。
 お金を払って墓地に入ると、おお・・・浅野長重の墓があるではないか。ここの藩主ではなかったので、ないと思っていたのだが。ラッキーである(なにが?)。

(同じ墓地にあった森家墓所)

 これで赤穂市も終了。本日、最後の目的地である龍野市に向かう。赤穂市を出た頃は小雨だったが、龍野市に着いたらどしゃぶりTT 龍野城に着いてもやむことはなく、仕方なく傘を差してデジカメに気を遣いながら、見て廻る。

(龍野城復元櫓)

 龍野城の元である鶏龍山も行こうと思ったけど、面倒でやめにしました。雨の中、再び運転し宿のある姫路市に到着。ごろごろした後、寝ました。
 明日は姫路城だが・・・雨かあ・・・。あんまり気分が乗らないなあ。

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山陰・山陽2500キロ史跡巡りの旅(6日目:須佐神社・長浜神社)

 平成18年8月17日(木)、明日は愛知県に帰るので、今日は小休憩。ということで、島根のじーやんとばーやんの墓参りに行った。このじーやんは歴史が好きで、親戚の人の話だと、城に行くと案内板をじっくり読んで迷惑がっていたらしい。う~~ん、覚えてないなあ・・・。出雲大社や松江城には連れて行ってもらったのは覚えているけど。

 私が歴史好きなのはこのじーやんの遺伝子なんだろうな。本まで出しちゃったよ、じーやん・・・ーー;
(祖父母の墓の写真・・・はない。いくら私でもそれは写さない)

 そこで帰るのもなんなんでちょっと(かなり)足を伸ばして、奥出雲まで行った。まずは須佐神社。そのまんま須佐之男命が奉ってあるのだが、今ここは話題の場所らしい。なんでも江原啓之とかいう人が「ここが日本で一番気のパワーがある」とか言って若い女性に人気らしいのだ。立久恵峡より奧なのに。
 まあ、立久恵峡も久しぶりに行くか、と思って行ったのに、立久恵峡は通り過ぎた。なんか面倒くさかった。ということで、須佐神社に到着。
 ・・・普通の神社やね。でも、歴史はありさげな気がする。平日だったので、特ににぎわっても無かった。

(須佐神社)

 ここで次に行く長浜神社の場所を聞く。神主さんが出雲言葉全開で聞き取りが非常に難しかったので、奥様の通訳で何とか会話が出来た。「伯耆地方からきなはったなら『おおがむやまずんじゃ』は知っとるだろ」って言われたとき、思わず「え?」って言っちゃったよ。ああ、この前言った大神山神社ね・・・。私、昔から出雲言葉は聞き取れなかったんだよね・・・--;
 それから隣の食堂でまた出雲蕎麦を食べた。平日だったので、周りから聞こえてくるのは出雲言葉ばかり・・・。ああ・・・100%山陰だねえ・・・。本当に土日は遠くからここまで来ている人がいるのだろうか。ちなみにパワーとかはよう分からんかった。まあ、分かろうとしてなんだけど。鰯の頭も信心から、だな。
 って、言いながら、次の長浜神社はそういうのが目的だった。蕎麦を食べ終わると北側に戻って、ちょっとだけ迷ったけど長浜神社に着く。ここは国引き神話所縁の地で、また朝鮮出兵の際に豊臣秀吉や加藤清正・福島正則が参拝して、そのご利益で初戦は連戦連勝だったので、スポーツに勝利する神社として知られている・・・。って、日本軍は後半ぐだぐだやったやん。ご利益あるのだろうか・・・。そんな不安を抱えながら勝負に勝てるように祈った。そしてお守りを買った。

(長浜神社)

 それから親戚の家に寄った後、ぶらぶらして自宅に戻った。
 そして友達の家に用があったので行くとすんごい雨になってきた。あらら・・・山陰にいる最後の日なので、地元を撮って帰ろうかと思っていたのに残念、と思ったら海の方は晴れている。ということで、用を済ますと海の方へと向かった。
 おお・・・きれいな虹が・・・。

(虹)

 それから展望公園に行き、実家に戻って来てから日課となっている夕日撮影。雨が降っていたから心配だったけど、晴れたので見事撮れた(実際はこっちは小雨で向こうだけ晴れていた)。父親の「雨が降って畑に水が欲しい」という願いと、私の「晴れて写真が撮影したい」という思いが両方叶った。こんな運のいいときもあるんだね。

(御来屋の街と夕日)

 明日はいよいよ実家を立ち、山陽側を通って帰ります。さようなら山陰。I LOVE 山陰(by BSS)。山陰の夏は本当に良かった・・・。



山陰・山陽2500キロ史跡巡りの旅(5日目:三村家三代の墓・備中松山城)

 平成18年8月16日(水)、さすがに疲れたのでこの日は本屋にでも行ってぶらぶらしようかな、と思っていたら、母親が「滅多に帰って来ないんだから、ゆっくりするのは愛知県に戻ってからでもいいんじゃない」と言うので、その助言(?)に従って出かけた。しかもうかつなことに友達と遊ぼうと思っていたら、みんな仕事だったので・・・。そっか、普通はこの日は仕事か・・・ーー;
 今回は岡山県の高梁市。距離は120キロくらいかな。高速道路で行くと遠回りになるので、今回は下道の国道180号で行った。
 高梁市に行く前にまず途中の鳥取県江府町で江尾(えび)城に寄ってみた。まあ、特になんかあるわけじゃあないけど前からずっと行きたかったので。町役場の方の指示通り、近くの公園に停めて行く。なんか櫓みたいなのが見えてきた。どうも歴史民族資料館らしい。でも今は閉鎖されている。地元の人によると、中世の城だった江尾城跡にこんなもの建てたので、どっかから(どっかの教授?)からえらい怒られたらしい。ついでに遺構も破壊したりしたのだろうか。

(歴史民族資料館)

 遺構は石垣とか残っていました。
 それからさらに南下。新見市で食事をした後(新見で新見陣屋とか寄ろうと思ったけど面倒でやめた)、高梁市へ。まずは高梁市中央図書館に車を停めてどこを廻るか決める。いい加減だなあ・・・、今回ここに来る予定は無かったからだけど。
 ここはお寺が多くて古い町並みも良く残っているらしい。その辺りを廻ることにした。
 車をちょちょっと走らせ、頼久寺へ。ここに来たのは有名なのもあるけど、目的は備中の戦国武将・三村家親&元親のお墓。なんか悲哀を感じる戦国武将ですよね・・・。

(頼久寺にある三村家三代の墓)

 次は備中松山城。12年くらい前に行ったときは一番上の駐車場まで行ったけど、狭くてえらい困った記憶があったが・・・今回行ってみたら途中の広い駐車場まで車で乗り入れた後、シャトルバスで入り口まで行くように変わっていた。シャトルバスで入り口まで行き、天守まで登っていく。重要文化財だけあって建物・石垣ともに素晴らしい。こりゃ確かに一見の価値はある。

(石垣)

(天守)

 これを維持していくのって大変なんでしょうね・・・。ということで城をあとにし、再び街に戻る。
 降りた後は、街を散策し市街地は終了。

(武家屋敷通り。遠くに見えるのが備中松山城)

(泰立寺。男はつらいよ「笛を吹く寅次郎」のロケに使われた)

(その隣にある松連寺。朝鮮出兵の際の宇喜多秀家が乗った御座船の天井などがあるが、非公開)

 そしていよいよ今回のメイン、高梁市に来たら絶対に行きたいと思っていた阿井の渡場。上月城で捕らえられた山中鹿之助が護送中にここで毛利家に斬られた。戦いとは無情である。

(阿井の渡場近くに建つ山中鹿之助の墓。小さな公園として整備されていた)

 そしてそれからさらに奥に車を走らせ、最後の目的地である山中鹿之助の胴墓に着く。首を斬られた鹿之助の首から下を埋葬したもの。墓から30メートルくらい下に案内板があるが、胴墓そのものには何も建っていない。なので、墓に刻んである法名(案内板に書いてある)だけが手がかり(とは言ってもぽつんと古いお墓があるので、行けば分かるけど)。

(山中鹿之助胴墓)

 首は皆様ご存じの通り、福山市の鞆の浦にある。こっちもいずれは行くつもり。ということで高梁市での旅は終了。そのまま実家に戻った。その帰り、実家近くの海岸沿いできれいな夕日が見られたので、また撮影する。

(風車と夕日。なんか日本じゃあないみたいな風景だな・・・)

 そしてそのまま帰宅。帰ってきたときの母親の一言。「毎日、よう出かけるねえ」。ってあんたが出た方がええって言ったやん・・・。
 それから親を車に乗せて墓参りに行きました。他人の墓ばかりじゃあなく、自分の先祖の墓にも行っておかないとね。お参りを済ませた後、帰りに近くの川を通ると、盆の最終日なので灯籠流しをやっていました。
 ということで、盆も終わったが、まだ愛知県には帰らず明日も出かけます。

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